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院長のコラム


























 

院長のコラム 2020年1月〜6月掲載分(テキストのみ)


(記事のリスト表示並びにフルバージョンへのリンクはPCサイトからどうぞ)


*検索サイトからお越しの方は、ブラウザの<ページ内検索>を利用して目的とする用語を見つけて下さい。

*内容についてですが、動物学、生物学、医学に関する一定以上の知識、興味、関心をお持ちの方に向けてのものとなります。







 

ネズミの話22 ハンタウイルス感染症X




2020年6月25日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第5回目です。この先数回に亘り、ハンタウイルス感染症の内の肺炎について扱います。現在、世間を騒がせているコロナウイルスの問題を考える際に、読者の方々に何らかのヒントとなるのではと思います。



ハンタウイルス肺症候群

(hantavirus pulmonary  syndrome HPS)


 ハンタウイルスで腎症候性出血熱を引き起こす型のものが、ネズミの主に尿で汚染された粉塵を吸い込み感染することから、ハンタウイルスは肺胞を構成する細胞にもともと親和性を有する事が理解出来ます。肺炎を起こす型は、そのまま強く肺胞或いは周囲組織の細胞に吸着し破壊を進めて肺炎を起こすと考えれば宜しいでしょう。酸素交換の場である肺胞の構造そのものを破壊する、或いは肺胞や毛細血管の壁の透過性を亢進させ肺胞内を水浸しにしてガス交換を妨げるなどが考えられるでしょう。勿論、これは呼吸筋自体の障害或いは呼吸筋に指令を伝達する神経原性の呼吸障害とは全く像を異にし、臓器としての肺そのものの機能不全を起こすことになります。


 前にも書きましたが、院長が学生時代にはハンタウイルスに肺炎を惹起する型がある事は知られていませんでした。詰まりはハンタウイルス肺症候群は比較的最近に認知された感染症となります。実際のところ、もともと新大陸にヒトの感染症として存在しており、インディアンやインディオに感染を引き起こしていたものの単に medical  community 医学界に知られていなかっただけであることが判明しています。ジャングルの奥地に棲息する動物との偏利共生関係にあったウイルスが何らかの切っ掛けでヒト社会に初めて感染を起こしヒト社会に被害をもたらす、所謂新興感染症 emerging diseases では無かったのです。これはネズミの仲間の内にヒトの居住圏と生活圏が被るものが存在することからも理解はできる事でしょう。まぁ、新認知感染症 a newly-perceived  disease とでも言えましょうか。ヒトからヒトへの感染が一部の型を除いて見られませんので、この点からも現在のコロナ禍の様な新興感染症とは性格を異にします。


 以下の2つの、報告並びに論文を主として解説を進めて行きましょう。


https://www.cdc.gov/hantavirus/outbreaks/history.html

Tracking a Mystery Disease:

The Detailed Story of Hantavirus Pulmonary Syndrome (HPS)

(誰でもアクセスできます)


Rodent-borne diseases and their risks for public health

Bastiaan G Meerburg, Grant R Singleton & Aize Kijlstra

Pages 221-270 | Received 28 Nov 2008, Accepted 22 Apr 2009, Published online: 23 Jun 2009

Download citation https://doi.org/10.1080/10408410902989837

https://www.researchgate.net/publication/26313283_Rodent-borne_diseases_and_their_risks_for_public_health

(無料で全文読めます)





 まず最初に、上に紹介したCDC (Centers for Disease Control and Prevention アメリカ疾病予防管理センター)に拠る報告書に於いて、ウイルス発見の経過が緊迫感を持って語られ、大変面白く読めますので、院長に拠る全訳を3回に分けて掲載しましょう。


 未知の感染症と見られる疾患が発生を見た時にどの様に対処すべきを学ぶに当たり、非常に有益な教訓と成り得ると感じます。新たな感染症が発生した時に備え、病原体の特定に至るまでの職人集団をチームとして抱えて置き(米国CDCの類似組織を本邦にも立ち上げる)、またその様な仕事を高く評価し、大きな業績と認定する社会が成立すると望ましいと院長は考えます。まぁ、病原体の探索はラボに於けるハンティングにも似て、当事者自身もハッスル出来るのではと思います。面白い仕事であることに加え、成功の暁には名誉と地位が得られるでしょう。但し、運悪く感染し死亡すれば、黄熱病に遣られた野口英世と同じ運命を辿ることになります。スリルもあって一段と愉快に感じる方もひょっとして居られるやもしれませんが。




Tracking a Mystery Disease:

The Detailed Story of Hantavirus Pulmonary Syndrome (HPS)


謎のウイルスを追い求める:

ハンタウイルス肺症候群(HPS)発見の詳細なストーリー


https://www.cdc.gov/hantavirus/outbreaks/history.html




The “First” Outbreak

<最初の>集団発生


 1993年の5月に、フォー・コーナーズThe Four Corners として知られるアリゾナ、ニューメキシコ、コロラド及びユタ州に跨がる米国の南東地域で正体不明の肺疾患が突如発生した。若く、肉体的にも鍛え上げたナバホ族の男性がニューメキシコの病院に駆け込み、すぐに死亡したのである。医療関係者が症例を再調査したところ、その若者の婚約者が極めてよく似た症状を示した後、2,3日前に死亡していたことを知ったが、これはこの疾患を発見する鍵となった情報の一つである。インディアン健康サービス(IHS)のJames Cheek 医師がこう記録している。「もし同じ一週間に続けて発症した最初のあのペアが居なかったらこの病気に全く気づきもしなかっただろう」。


 同様の症例を持つ者が他にいないかを調べるために、フォー・コーナーズ全体を束ねた調査がニューメキシコ州の医学調査所 (OMI) にて開始された。僅か2,3時間の内に IHS の Bruce Tempest 医師に拠り、5名の若く健康な患者が急性呼吸器不全症発症の後に全員が死亡していたことが突き止められた。


 実験室での一連の検査結果、既知の疾病を起こす死亡例、例えば腺ペスト、には合致しなかった。この時点で CDC の特殊病原支部に連絡が為された。CDC、ニューメキシコ、コロラド、ユタ州の各保健部局、、インディアン健康サービス、ナバホ族自治政府、ニューメキシコ大学、これら全てが発生に立ち向かうために集結した。続く数週の間、フォー・コーナーズでこの疾病が追加報告され、内科医と他の専門科学者が可能性のある原因を狭めるべく鋭意働いた。症状並びに臨床上の新たな発見を元に、研究者達は除草剤への暴露や新型インフルエンザなどの可能性から研究対象を外し新たなウイルスの探索へと舵を切った。感染患者から採取した組織試料が CDC に送られ、徹底的な分析が加えられた。CDC のウイルス学者は数通りの検査法を採用したが、これにはウイルス遺伝子を分子レベルで特定する為の新たな方法が含まれていた。そしてこの肺症候群を従来知られていなかったタイプのハンタウイルスに結びつけることに成功したのである。


(つづく)








 

ネズミの話21 ハンタウイルス感染症W




2020年6月20日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第4回目です。前回に引き続きハンタウイルス感染症の腎症候性出血熱についてお話を進めます。




腎症候性出血熱 (Hemorrhagic Fever with Renal Syndrome; HFRS)


症状




 感染物に暴露後 1〜2週以内に発症し、稀には 8週まで要するケースもあります。北欧型の  Nephropathia epidemica 流行性ネフロパシーでは、潜伏期は3週間です。初期の症状は突発的な烈しい頭痛、背部痛、腹痛、発熱、悪寒、吐き気、霧視で始まり、人に拠っては、顔面紅潮、目の炎症と充血、発疹を示すこともあります。後には、低血圧、急性ショック、血管漏出、また急性腎不全を起こし得ますが、これは重度の浮腫発生に繋がり得ます。

 この病気の重篤度は感染ウイルスの種類により変化します。前に触れた様に、Hantaan  並びに Dobrava 血清型 virus は通常烈しい症状を起こしますが、他方、Seoul,Saaremaa, 及び Puumala virus はよりマイルドな像になります。完全な回復には数週〜数ヶ月を要します。




 病気の経過は以下の5フェイズに分けることが可能です:


熱症期

 頬や鼻の紅潮、発熱、悪寒、手のひらの発汗、下痢、倦怠感、頭痛、吐き気、腹部及び背部痛、インフルエンザに見られる様な胃腸症状並びに呼吸器障害、が観察されます。これら症状は感染後2〜3週後に起こり、3〜7日継続します。まぁ、ウイルス感染に対して身体の各所で免疫側のと烈しい攻防が繰り広げられる時期ですね。大方のウイルス感染はこの展開を取りますが、その次の段階から罹患したウイルス感染症の特徴がいよいよ発現します。


低血圧期

 血小板数の低下と共に起こります。頻脈と低酸素血症に繋がる場合もあります。この期間は短く、2日続き得ます。腎臓は血圧コントロールにに密接に関与する臓器ですので、そろそろ腎臓に来たのかな、と言う段階です。血小板が減少するのは出血が発生し止血のために多数動員されるからでしょう。


乏尿期

 3日〜7日続き腎不全の発症及び蛋白尿で特徴付けられます。腎臓の尿を濾過する部分が破壊され、尿が作れなくなったり、或いは栄養分であるタンパク質が尿中に漏出する過程です。


利尿期

 一日当たり2〜3リットルの排尿で特徴付けられますが、数日から数週続き得ます。健康な成人では毎分1ccの尿が作られますので一日換算で1.5リットル程度となります。多尿傾向であり、腎臓での原尿の再吸収能がまだ完全ではない事を示すものかもしれませんが、免疫が体内のウイルス駆逐に成功し、破壊された腎動静脈の血管内皮が再生され機能し始めた段階ですね。


回復期

 腎炎症状が改善し回復に向かい始める時期です。


 この症候群は致命的ともなり得ます。慢性腎不全に移行する場合もあることが知られてれています。また、死亡率は数パーセントはあるものの、 ヨーロッパで見られる nephropathia  epidemica 流行性ネフロパシーでは症状はよりマイルドな像を示します。




診断と治療




診断


 HFRS は臨床像のみからでは確定診断が難しく、血清学的証拠がしばしば必要となります。一週間の間隔を置いた検査で IgG 抗体価が4倍上昇し、ハンタウイルスに対する IgM タイプの抗体が確認出来れば急性ハンタウイルス感染症の良い証拠になります。感冒様症状で発熱し、原因不明の腎障害と時に肝不全を示す患者に対しては HFRS を疑うべきです。



治療


 現在世界各地で感染爆発を起こしているコロナウイルス感染症と同じく、HFRS に対する根本的治療法や確立されたワクチンは全く存在しません。治療は人工透析を含めた支持療法(=姑息療法)になります。中国や韓国に於けるリバヴィリン ribavirin (ウイルスのRNA合成を中断させる作用を持つ抗ウイルス薬)を用いた治療では、発熱開始後7日以内に投与されるのであれば、発症期間の短縮並びに死亡率を減らす結果となりました。この様な抗ウイルス薬はウイルスそのものの増殖を抑制する薬理的作用機序を持つものですが、様々な副作用から免れ得ず、全身状態の低下した患者に易々と投与できるものではありません。因みに、抗ウイルス製剤に関しては、院長も以前ヘルペスB陽性のカニクイザルを扱った際にはヒトの感染症専門医から薬(アシクロビル)を貰い、万一の咬傷受傷等の事故時には服用するよう指導を受けましたが、副作用として精神障害を起こす可能性がある旨の能書きの記述があり、脳炎になるのも困るが精神障害もイヤだと思ったことを覚えています。



予防


 作業場やキャンプ地での齧歯類とのコンタクトを排除する事と同様、家屋内や周辺での齧歯類の制御が今日でも第一の防疫戦略となります。密閉された食貯蔵場所や小屋がしばしば齧歯類蔓延の理想的な場所です。利用の前にその様な空間を開放しエーロゾルを逃がすことが奨められます。実験動物飼育者等に対しては、齧歯類の排泄物に直接接触することを避け、並びに齧歯類が体外に出すものから舞い上がるエーロゾルへの暴露を避けるべくマスクを着用することが求められます。


 朝鮮戦争時に国連軍兵士側に多数の患者が出ましたが、従軍者の多くは第二次大戦にも参戦した者と思われます。他の地域で行ったのと同様の感覚でキャンプを行い感染に繋がったものと思われます。第二次大戦中に日本兵が感染した出血熱(実は後日同じ感染症と判明)に関しては院長はそれを記述する当時の医学雑誌掲載論文をまだ入手し得ていませんが、国連軍の大多数を占める米軍側はその情報を掴んで居なかったのでしょう。




 動物の軍事利用等含め、『軍隊と動物』については後日纏める予定です。


 次回コラムからは、新世界で問題となる ハンタウイルス肺症候群  (hantavirus pulmonary  syndrome  HPS)  を扱います。








 

ネズミの話20 ハンタウイルス感染症V




2020年6月15日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ドブネズミを含めた齧歯類の感染症のお話の第3回目です。前回に引き続きハンタウイルスについて扱いますが、これから数回は腎症候性出血熱にスポットを当てて行きましょう。




腎症候性出血熱 (Hemorrhagic Fever with Renal Syndrome; HFRS)




 本邦では1960年代での大阪梅田駅周辺での流行例 (10年に亘り計119例の感染者と2名の死亡者)、並びに70年代の実験動物ラットを介在した感染例 (22機関で126例のハンタウイルス感染者が発生、1981年にラット飼育者が1名死亡)、或いはその後の散発例を聞くのみであり、現況では特に話題に上ることも無い、言わば耳学問としての教科書記載の感染症との位置づけにあります。しかし、現在でも中国では年間発症例が数万人に達し、韓国では300〜400人、またヨーロッパでも数千人規模の毎年の感染例が報告されており、公衆衛生学的に重要な感染症となっています。日本の主要港湾近辺に棲息するドブネズミに腎症候性出血熱を起こす Seoul 血清型のハンタウイルス感染個体が観察されますので監視を怠るべきではありませんし、一般の方々もドブネズミを遠ざけるべく環境改善に取り組む姿勢が大切でしょう。特に繁華街などの飲食店がドブネズミの棲息並びに繁殖拠点となり得ますので、侵入されない工夫が必要です。また中国本土、特に感染が蔓延している地区に渡航する際にはドブネズミが接近する可能性のある衛生環境レベルの低い場所(農業用倉庫、野営地等含む)には近寄らない様、心懸けることが重要です。

 不顕性感染したネズミの尿、糞便、唾液にウイルスが排出され、そのエーロゾルや汚染された塵埃を吸引すること、或いは皮膚の傷経由(咬傷)で感染する伝搬様式です。一般的には排泄物や汚染された媒介物経由での接触感染、詰まりは健常な皮膚経由での感染は、ハンタウイルスが起こす腎炎並びに肺炎共に、示されていません。

 ラットを飼育していると分かりますが、自分が歩く場所に、転々と尿滴でマーキングする習性があります。視力が悪くても、或いは夜間であっても、その匂いを辿れば道が分かる仕組みです。グリム童話のヘンゼルとグレーテルの物語で、父親に森の中に捨てに行かれる途中で、家に戻れるようヘンゼルが小石を点々と撒いた様なものです。従ってネズミが居れば彼らの歩く場所は全て尿で汚染されていることになります。この様な次第ですので、ウイルス汚染地区でネズミの侵入を許すような居住形態であれば、ホコリが舞い上がった拍子にヒトに対する感染は容易に成立するでしょうね。世界中のHFRS患者の90%を中国が占めており、1950年から1997年の間に、患者120万人と死者44300人が発生しました。特に黒龍江省、山東省、浙江省, 湖南省、河北省および湖北省で、患者総数の約70%を占めますが、言わば事実上のこれらの地区の風土病といって良いでしょう。院長は旅行したことはないのですが、密閉性の悪い古い様式の建物の割合が高い、農村地区なのではと想像します。

 ハンタウイルスの複数の血清型が腎症を引き起こすのですが、セスジネズミ由来の Hantaan 血清型 (Hantaan River virus ) 並びに Dobrava 血清型ハンタウイルス(Dobrava-Belgrade virus) が最も激烈な症状を起こし、また死亡率も高いのです。他方、ドブネズミ由来の Seoul 血清型のハンタウイルスはこれよりマイルドで、また、bankvole (=川の土手に住むずんぐりしたネズミ) ヤチネズミが自然宿主となる Puulama 血清型のハンタウイルスが起こすものは軽症型となり、nephropathia epidemica 流行性ネフロパシー(ネフロパシーとは腎症のこと)とも呼称され、北欧のスウェーデン、ノルウェー、フィンランドで発症を見ます。まぁ、中国と朝鮮半島のものは重症型、北欧のものは軽症型と考えれば良かろうと思います。中国に於ける多数の感染については、ドブネズミの原産地が中国北部とも考えられていますので、野生のドブネズミ個体の絶対数が多く、その集団の中で維持されてきたハンタウイルスがドブネズミの人間生活への接近の過程で感染をもたらすのではないか、と院長は推測しています。

 腎症候性出血熱が欧米に注目されたのは、1950年代の朝鮮戦争の際に、朝鮮半島に駐留した国連軍兵士2000名あまりの間で不明熱患者が発生し、数百名が死亡したのですが、症状と剖検所見から旧満州・旧日本軍の間で流行した流行性出血熱  (epidemic  hemorrhagic fever: EHF) と同一疾患であることが判明したことに拠ります。ハンタウイルスの名はこのウイルスが同定された場所を流れる漢灘江 ハンタンガンに由来します。ハンタウイルスの仲間 (別の血清型) は新大陸に於いては肺炎を起こすことが過去25年程で知られるようになり、ハンタウイルス感染症は米国人医師や米国民の間に漸くにして強い関心を持たれるようになって来ました。

 院長は以前、防衛医科大学校で生物学を受け持ったことがあり、新入生に対して医動物学的な観点から講義を行ったのですが、その中で、自衛隊が海外での仕事が生じた場合、現地での動物由来の感染症に罹患する危険性に触れ、またコウモリなどは霊長類に系統が近いことも有り格段の注意が必要だと述べたのですが、これが彼らの役に立っていれば良いがと思っています。

 <ラットと飼育>のコラムで述べましたが、ラットをペットとして飼育することが米国を中心に流行しています。残念ながらペットのラット(ファンシーラットと呼ぶ)にも Seoul血清型のハンタウイルスの感染が見られる事が確認され、米国 CDCが注意を呼びかける事態となっています。詳細については以下をご参照下さい。


https://www.cdc.gov/mmwr/volumes/67/wr/mm6704a5.htm

Outbreak of Seoul Virus Among Rats and Rat Owners - United States and Canada, 2017

米国CDC Morbidity and Mortality Weekly Report (MMWR)

February 2, 2018 / 67(4);131-134

Janna L. Kerins, VMD; et al.




感染機序




 一般的なウイルス感染症と同様に、始まりは感冒様症状ですが、名前の通りやがて腎炎を発症し、軽度のものでは血尿、蛋白尿を示しますが、重症化すれば腎不全の一連の症候群(低血圧とショック状態、乏尿)に移行後、2ヶ月程度で回復します。重症例の死亡率は3〜15%、また軽症例、重症例含め3割は出血傾向を示します。これはヒトに於ける経過ですが、齧歯類以外の他の動物にも感染する可能性はありますので、もし飼育下の動物に同様の症状が観察された場合は注意が必要です。

 一般的に、ウイルスがどうやって感染するかと言うと、生き物を構成する細胞には様々な種類が有り、細胞表面に存在する化学物質も違っているのですが、この化学物質(受容体と言います)にピタッと嵌まる化学物質を保持しているウイルスがその細胞(標的細胞)に取り付く仕組みです。ウイルスは生きた細胞以外では増殖出来ませんので、取り付いた細胞の中に進入して内部で数を増やし、最終的にはその細胞を破壊して身体中に散らばります。細胞を破壊された側は、破壊された細胞の数が多ければ、臨床症状が出て生命維持に不具合が出てくることになります。ウイルスの、細胞に取り付く力 (感染力)、細胞内で増殖する割合、当該細胞の生命維持に対する重要性、また生体側のウイルスに対する免疫力、これらの総体として臨床的に軽度か重篤かの様々な病態が示される訳です。コロナウイルスに関してもこの様な理解の仕方をするとスッキリ理解出来るのではないかと思います。即ち、コロナは肺の細胞を標的とする訳ですね。

 因みに、自己免疫性疾患の場合もちょっと似ていて、免疫担当細胞側が誤った情報にて探査機能を発動し、身体の細胞或いは構造の中で特定の化学物質を持つものを攻撃し破壊します。この結果不具合が生じる仕組みです。この機序に関しては、院長コラム 2019年11月5日 『キツネの話N 俗信と精神医学U』にて、自己免疫性脳炎について触れていますので興味があればお目通し下さい。免疫担当細胞側の暴走をどう抑えるのかが治療の根本ですが一筋縄ではとても行きません。これを鑑みると、ウイルス感染症自体はまだしも単純明快な機序で推移すると言えるでしょう。但し、後天性免疫不全ウイルス、即ちエイズウイルスの場合は、免疫細胞を標的とし、自身に対する免疫攻撃を低下させる高等戦略のウイルスですので、これはこれでまた厄介です・・・。

 さて、腎炎を来すタイプのハンタウイルスは、毛細血管の内皮細胞(内皮とは一番内側の細胞の層で、常に血液に触れる側の壁面に相当します)を標的とします。血管は只のパイプではなく、何層かの構造から成ります。庭に水を撒くホースなどでも、断面を見ると内側が白く、外側が青などと層構造を示す丈夫なタイプが売られていますが、その様な構造です。一番内側の白い部分が内皮に相当すると考えれば理解し易いでしょう。

 毛細血管の内皮が破壊されれば、毛細血管の薄い血管壁からジワジワと血管の外に向かい血液が漏れてしまいます(出血傾向)。軽度であれば皮膚に静脈の分布パターン通りに斑文が生じる程度ですが、後ほど触れる予定の他の出血熱、例えばアフリカで流行中のエボラ出血熱では、皮下に大量の血液が貯留し、また皮膚表面の弱い部分から血液が体外に漏れ出すまでに至ります。HFRS 発症ウイルスの場合は、腎血管の内皮に特に親和性を持ちますので、血液から尿成分を濾し取るまさにその機能を担う場所が破壊され、腎臓が機能しなくなり、冒される領域が広ければ腎不全状態に陥ります。増殖したウイルスは尿中に排出されますので、ネズミの尿が重要な感染源となる訳です。詰まり、感染源となるネズミでも、実は僅かながら腎臓の破壊が生じていることになりますが、何ら臨床症状を現すレベルには至らず、不顕性感染で推移します。








 

ネズミの話19 ハンタウイルス感染症U




2020年6月10日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ハンタウイルス感染症の概論の第2回目です。




 ハンタウイルス全般に関する内容は、四半世紀前のものとなりますが、北大の有川氏に拠る以下の総説に分かり易く説明されています。


ハンタウイルス感染症 有川二郎 ウイルス vol46,119-129, 1996

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsv1958/46/2/46_2_119/_pdf/-char/ja

(全文無料で読めます)


 ハンタウイルスは現在おおまかに6つの血清型(遺伝子の違いに拠り血清反応が異なる、亜種、品種の様なもの)に分類されていますが、それぞれが自然状態で感染する(=自然宿主の)ネズミの種類が明確に分かれています。Seoul 型は ドブネズミ属 Rattus 、Hantaan 型と Dobrava 型はセスジネズミ属  Apodemus、Sin Nombre型は新世界のアメリカネズミ亜科 Sigmodontinae 、Prospect Hill 型はこれも新世界のハタネズミ属 Microtus 、Puumala 型はヨーロッパのヤチネズミ属 Cleth-rionomys のネズミを自然宿主とします。これらウイルスの血清型の遺伝子系統樹と自然宿主とするネズミの遺伝子系統樹とが一致するところから、もともとこれらネズミの共通祖先に感染していたウイルスが、ネズミが進化して枝分かれする際に共に進化して枝分かれしていったことを示す(共進化と言う)例として知られています。もし系統関係に疑問が残る動物がある場合、感染しているウイルスから進化系統がより明確になる場合もあり得ますね。傍証になる訳です。ドブネズミに感染する Seoul 型は世界の各地で捕獲される個体間で差が小さく、これはドブネズミが世界に拡散してからそれほど長い時代を経ていないことを裏打ちする、との興味深い考えも提出されています。まぁ、どこの国のドブネズミも似た様なもんだ、との塩梅ですね。

 因みに、これらネズミにはハンタウイルスは病原性を示さず、不顕性感染の形となり、一年程度で感染個体からは自然に抜け落ちてしまいます。ウイルスが感染して病原性を発揮すると言うことは、ウイルスが体内の特定の細胞の表面にある受容体に結び付き細胞内に侵入し、この細胞内で増殖しこの細胞を数多く破壊する一連の過程の出来事になります。病原性を示さないとは、感染が成立してもそれ以上殆ど細胞を壊すこと無く、<大人しくしている>関係が生じたことを意味します。ウイルス側が突然変異して宿主側に反応しなくなったか、宿主側がウイルスの取り付けない細胞に進化したのか、宿主側がそのウイルスに対する免疫能を進化させたのか、或いはこれらの組み合わせの場合が考えられます。これが、この様な<馴れ合い関係>の成立していない別の種に感染すると、烈しい感染爆発を起こすに至る場合があり得ます。今回のコロナウイルス感染症に関しては、由来についてあれこれ説が提出されていますが、もし野生動物由来の新興感染症 emerging diseases であれば、これと似た様な観点から感染拡大並びに病原性についての説明が出来ると院長は考えて居ます。まぁ、獣医学の素養の有る者であれば皆同様の事は考え付くだろうと想像はしますが。森の中の野生動物の間で人知れず温存されていたウイルスが、ヒトが森に踏み込んで感染動物の肉を食べる、咬傷を受けるなどしてヒトの世界にウイルスが導入されるとの図式です。


 興味深いことに、新しい方のハンタウイルス、例えば Puumala 型などのものほど、ヒトに対する病原性が低下していることです。ネズミには元々不顕性感染の状態が成立し、ヒトに対して強毒、弱毒の違いは存在しますが、ネズミの個体数には進化的圧力(=進化圧)とはなっていません。ネズミとの共存が長くなり、ウイルスが進化すると、他種にとっても病原性が低下するとの面白い現象が起きていることになります。まぁ、ネズミもヒトも同じ哺乳動物であり共通の生物学的機構で生きていますので、ネズミの身体に<馴染んだ>ウイルスは基本的にヒトにも優しくなっている、と大まかには考えても良さそうには思えますが。

 動物細胞内にはミトコンドリアと言う酸素呼吸を効率よく進めるための細胞内小器官が存在しますが、これは元々は別の微生物だったものが動物の細胞内に侵入し共生を開始したものだとの説(二量体説)がよく知られています(院長コラム 2019年5月15日 『イヌ科の系統分類A 遺伝分析』にてチラと触れています)が、ウイルスが動物細胞内に取り込まれ、動物の進化自体にも直接関与しているとの報告は幾つか提出されています。大変面白い進化学説ですが、これについては、ウイルスとの<馴れ合い関係>を含め後日纏められればと考えています。ひょっとすると、ヒトがヒトとして進化し得たのもウイルスのお蔭かも知れず・・・。

 それでは次回からは、ハンタウイルス関連感染症  (hantavirus-associated infectious diseases これは院長の命名) を、腎炎と肺炎の2つに分け、順に解説を進めます。








 

ネズミの話18 ハンタウイルス感染症T




2020年6月5日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの筆頭格?であるドブネズミのお話が続きましたが、これから複数回シリーズでドブネズミを中心として他の齧歯類をも含めた感染症の話を展開します。




 他の齧歯類と全く同様に、ネズミは人畜共通感染症となる数多くの病原体を伝搬します。

 この結果、ヒトに、

ハンタウイルス関連感染症 (hantavirus-associated infectious diseases)

Q熱 (Q fever)

鼠咬症 (rat bite fever)

レプトスピラ症 (Weil's disease ウェイル病)

クリプトスポリジウム症(cryptosporidiosis)

出血熱 (viral hemorrhagic fever)

腺ペスト (bubonic plague, Black death)


                               などの数多くの感染症を惹き起こします。

 公衆衛生上問題となり得る、ネズミ含めた齧歯類の感染症については、以下の総説が詳しく纏めています。10年前の論文ですがこれを押さえておけば当面は十分だろうと思います。実態を知ると齧歯類をペットとして飼育することが恐ろしくなるかもしれません・・・。

Rodent-borne diseases and their risks for public health

Bastiaan G Meerburg, Grant R Singleton & Aize Kijlstra

Critical Reviews in Microbiology  July 2009 :221-270  Published online: 23 Jun 2009

https://doi.org/10.1080/10408410902989837

https://www.researchgate.net/publication/26313283_Rodent-borne_diseases_and_their_risks_for_public_health

(無料で全文読めます)


 ネズミが関与するこれらの感染症(これでも人類が知り得た齧歯類感染症の一部に過ぎません)の内、公衆衛生学的に特に重要性を持つものをピックアップし、以下各論形式で触れて行きましょう。内容が多くなりますので数回シリーズに分けます。まず最初に、近頃話題に上ったハンタウイルス感染症について採り上げます。




ハンタウイルス関連感染症 (hantavirus-associated infectious diseases)




 ハンタウイルスと聞けば壮年以上の獣医師であれば、講義で習った腎症候性出血熱 (Hemorrhagic  Fever with Renal Syndrome; 腎症候群を伴う出血熱 HFRS)をまず頭に思い浮かべる筈です。じつはこれは旧世界での話であり、新世界即ち南北アメリカ大陸では、ハンタウイルス肺症候群 (hantavirus pulmonary  syndrome) を惹き起こすウイルス(同じハンタウイルスだが血清型が違うもの)が含まれます。これは1993年以降に知られた感染症ですので、古い教科書には書かれていない訳です。

 現在、我々が頭を悩ませている中国が感染の起点となったコロナウイルス COVID-19 に関することですが、少し前に今度はハンタウイルス感染症が中国で勃発して大変だとのニュースが世界を駆け巡りました。これが肺炎を起こすとの話も一部では広まっていましたが、院長としては旧世界でのハンタウイルスと来れば腎症候性出血熱であり、肺炎とは無関係だ、どうも話がおかしいと感じていました。この様に、医学に対する教養や素養に乏しい者達が尾ひれを付けて騒ぎ立てる事例が最近富に多くなった様に感じています。

 コロナウイルスの問題に関しても、感染症専門医でもない、マスコミにチャンネルを持つ臨床医(町医者)がコメントするのですが、結局手を良く洗いましょう程度の月並みな内容、或いは彼らが購読している?医家向け非専門雑誌記事の受け売り以上の事は語れず、ああ、この人は研究のけの字も知らぬ経歴だなとすぐに分かってしまいます。そもそもまともな学者であれば、どの分野であれ、マスコミが情報を正しく伝えない危険性を警戒しますので、一般的にマスコミを相手にしません。それでマスコミ側も毎度便利にコメントしてくれるお目出度き?町医者(勿論医学的に正しい見解を慎重に表明せんとする尊敬すべき方々も一部に確実に居られますが)を重宝する哀しき構図となります、日頃、臨床の第一線で奮闘努力している医者も内心苦々しく感じているのではないでしょうか?

 これは、質の低い、エビデンスに基づかない単なる推測レベルの情報が世の中に拡大・錯綜し、託宣政治を執った邪馬台国の女王卑弥呼と同じく<衆を惑わす>原因となり得ます。日本のマスコミは、勿論例外はありますが、自然科学分野にからきし弱いと見え、科学的な公平な視点から取材対象に鋭く突っ込む能力に欠ける様です。本当の意味での取材ではありませんね。ただ安易に接近出来る取材ソースに飛びついて左から右へと情報を流すだけで、それに対して読者側にコメントさせるなどし、マスコミとしての責任を放擲しています。コロナ関連の日本のマスコミの報道姿勢で改めてこのことを強く感じた次第です。院長としては本コラム執筆に当たっても、海外発も含めた、信頼性高い情報源に広く当たる様に鋭意務めています。

 まぁ、コロナ禍を通じてポータルサイト含め各マスコミの生物学偏差値リストが歴然としました。

 尤も、国内或いは海外の感染症専門家の発した提言を元に、為政者が自粛や外出制限、或いは特に制限せずに自然免疫を作らせる策などに出ましたが、それが後日、正しくは無かった事例が次々と明るみになりつつあります。国内の場合も旧帝大系の極く少数の感染症関連の専門家らが政府に対して影響を与えましたが、彼らの試算通りには国内感染数が増減せず、寧ろ自粛等に由来する経済の落ち込みで多数の生活困窮者やはたまた自殺者が増える結果にもなると言われています。詰まりは専門家と称される者達も誤りを犯す訳です。これには専門家同士で互いの学問的な批判を真っ当に行い、次の感染爆発時により適切な対応が取れる様、省みることが必要と考えます。即ち、専門家間でも判断の優劣の偏差値リストが描けたと言う訳です。




次回はハンタウイルスの生物学的側面にスポットを当てます。








 

ネズミの話17 ドブネズミと飼育




2020年6月1日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの筆頭格?であるドブネズミのお話の第7回目です。




飼育されるラット−ペットのラット




 ちょっと前までは一般の家庭でラットをペットとして飼育することは稀だったでしょう。ネズミ=悪さをする不潔な害獣とのイメージそのものだったからです。だいぶ昔の話になりますが、院長が3,4歳の時に都下北多摩郡保谷町(現保谷市)の武蔵野市との境に近いところに一時的に住んでいたのですが、近所の若奥さんがネズミが罠に入ったと言うので金網製の捕獲罠(現在でも全く同じ物が売られていますが、かまぼこ形で真上に落とし穴が開いているタイプです)を持って武蔵野市との境を流れる仙川に沈めるところに他の子供達と共にぞろぞろ着いていきました。そのすぐ先は電電公社の施設が有り、従軍して負傷したのか足を引きずって歩いて毎朝通う壮年男性の姿が脳裏に蘇ります。若奥さんが稲わら製の縄をネズミが入った罠に取り付け、それを川に沈めてそろそろいいかと引き揚げると腹を上に向けて固まって絶命している灰褐色のネズミが目に入りました。子供でしたので生き死にが理解出来ずにふぅ〜んと眺めただけでしたが今でも鮮明にその一連のシーンを思い浮かべることが出来ます。その様なことを経験しているとペットとしてネズミを飼うには矢張り抵抗を感じるでしょうね。因みに google maps でその付近を探索してみましたが全く光景が変わり今浦島状態でした。当時は舗装もされていない凸凹の道路を時たまオート三輪のトラックが走り、降雨の後の水たまりに車から漏れたオイルの七色の輪が広がり(何と綺麗なんだろうと思いました)、ムラサキトビムシがぴょんぴょん撥ねている塩梅です。武蔵野台地の片田舎ですので家にはまだ水道が通らず井戸を汲み上げていました。土間の竈でメシを炊き、煮炊きの補助は石油コンロを利用していました。父親が新しモノ好きだったのかモノクロTVを買い込んでいて真空管ラジオと娯楽は二分していました。左隣に桜井さんと言う農家の大きな庭が有り院長は毎日生け垣の隙間から侵入して草木や昆虫を観察していましたし、近場の雑木林に繰り出したりで、自分の生物学を目指す基盤、原風景となったとつつくづく感じます。

 その16,7年のちに、院長は大学で実験利用した余りのラットの内、性格の良さそうに見えるものを自宅に持ち帰って飼育し始めたのですが、矢張り、そんなものは家で飼う動物ではないと家人に反対されました。白いネズミは大黒様の遣いであり昔から縁起が良いと言われている(和漢三才図会にこの旨の記述が有ります)などとの理由を付けて押し通してしまいましたが、非常になついて来、また顔もなかなか可愛い?と分かったのか家族にも受け入れられました。3年程生きましたが、亡骸を自宅濡れ縁の下に埋葬し(今もそのままです)、どうかこの家を守ってくれと密かに願ったのが効いたのか、院長の父母は共に90歳以上まで生き、母親の方はまだ健在です。このラットのことを思い出すとなんとも切なくなりますね。まぁ、身近な動物と人間との関係は楽しい話もあれば辛い話もあるとのことです。

 珍獣を飼育するのではなく、人間の身近に居る動物を飼育するのが容易なのは当然で、大方の家畜の起源はこれに由来するでしょう。只、齧歯類の場合は金属製の籠が入手出来ない時代には飼育は容易ではなかったでしょう。竹ヒゴで拵えた鳥かごの様なものでは瞬時に脱走されてしまいます。大きめの陶器製の甕(かめ)にでも入れて木の蓋でも被せて飼育するぐらいでしょうか。




 現在、ラットをペットとして飼育するのは世界的にあまり珍しくも無い事ですが、特に英語圏のオーストラリア、英国、米国では、イヌのケンネルクラブなどと同様に、ファンシーラット協会が設立されており、飼育標準を確立したり、イベントを企画したり、ラットの責任有る飼育を推進したりと活動しています。毛の色や模様のパターン、毛の有無、ミニチュアや無尾と言ったサイズや格好の違いなど、様々なものが育成されています。youtube の投稿動画でも飼育の工夫に関するものが投稿されていますが、良く工夫しているなぁと感心させられるものがあります。院長は自宅で飼育していたラットを籠から出して遊んでいる内に押し入れの中に入られてしまい、捕まえるのに一苦労した経験が有りますが、どうも三次元にモノがごちゃごちゃ積んである空間を冒険するのが大好きと見えました。ジャンプ力も強く50cm程度上の物体によじ登れますので、飼育ケージも或る程度のマスがあった方が良さそうです。普段はハムスターケージに入れておき、時々折り畳みメッシュ式の大きな空間に放ち遊ばせる遣り方も採れそうです。但し目を離した隙に穴を開けられぬよう。

 注意すべきは、勝手に家に住み着いている家ネズミとの接触を警戒することです。感染症、寄生虫を受ける事の無きよう人間の完全な飼育下に置き、周辺環境もクリーン化すべきです。北米でペットとして飼育されるラット(=ファンシーラット)が、ヒトに重篤な肺炎を起こすハンタウイルスに感染している例があることが判明し、注意が呼び掛けられてもいます(後日、ネズミと病気のコラムにて採り上げます)。寄生虫のエキノコックスの被害の出ている北海道ではラットをペットとして飼育することは避けた方が良いかもしれません。尤も、エキノコックスの life cycle 生活環の中にキタキツネと共に位置するエゾヤチネズミは、人家には寄って来ませんのでこれは心配し過ぎかもしれませんが。




飼育されるラット−働くラット




 何か特殊な任務の為にラットを調教して利用する場合があります。大半は実験用のラットの転用ですが、アフリカに棲息する巨大なネズミ、ガンビアホホブクロネズミGambian pouched rat (Cricetomys  gambianus) が良く利用されます(頬袋はハムスターやリスなどでも良く発達していますが実はニホンザルにもあります)。一定のサイズがあり、人間には使い易いからと言うこともあるでしょう。嗅覚の鋭さと小回りの利くサイズと低体重を利用して地雷発見用途に利用される例もありますし、検体を嗅がせ結核感染の有無を判別する用途にも実際利用されています。ラットは嗅覚に優れるのは確かと見え、これは裏を返せば視力が弱いからでもあります。捕食者を避けるべく日中では無く夜間に、或いは日の差さない地下空間で活動するのであれば視力は余り意味を持たないとも言えます。吻先を上方に突き出して匂いを嗅ぐ動作を頻繁に行いますが、匂いで彼らなりの空間情報を得ているのでしょう。同様のしぐさはモグラでも良く観察されますが、こちらも矢張り視覚は弱く、芥子粒大の眼球しか持たず、明暗を感じる程度と言われています。




飼育されるラット−実験用ラット




 現在は違法となっている rat baiting (ラットベイティング、主にテリア犬を利用し、ラットを一定時間の内に如何に多く噛み付いて殺すかを賭けた興業)にて、殺されることなく助け出されたアルビノラットを選別育種したものが、今日の実験用アルビノラットの元になりました。ラットを街中から捕獲する専門業者も現れるなどしたのですが、19世紀の最盛期にはロンドンにこの様な興業場所が70箇所もあったとのことです。5秒に1頭殺せば優秀犬とされた様です。昔はこの種の残酷なショーが平然と行われていましたが、院長が学生時代に沖縄に旅行した際にも、マングースにハブを殺させるショーはどこにでもありました。害悪をもたらす生き物だから見世物として殺しても良いとの考えですが、rat- bait にも通底する考え方でしょう。人間とは勝手なもので、現在はマングースが捕獲され処分される側です。秋田犬のコラムにて触れましたが、闘犬として利用もしていた秋田犬に、明治期に入り獰猛性と体格を増すために洋犬を混血させてしまい、後にその血の影響を抜くのに苦労した経緯があります。この様な、動物対動物、また動物対人間を戦わせる類いの興業、娯楽についてはその歴史を含め別項で纏めたいと考えて居ます。

 さて、ハツカネズミと同じく、ラットは医学、心理学や他の生物学的実験の材料として頻繁に利用されていますし、重要なモデル動物(特定の疾患などを発現し、その疾患を研究するためのモデルとして利用出来る動物)の1つでもあります。これは、成長が早くすぐに性成熟に達し、飼育下での維持繁殖が容易だからです。現代の生物学者がラットと言及する時はほとんど常にドブネズミ  Rattus norvegicus を意味します。実験に利用する為には、遺伝子のばらつきが存在するとデータの解釈が難しくなりますので、兄妹(けいまい)交配を繰り返し、遺伝子を均一に煮詰めていきます。この様にして様々な実験用の系統が作出され利用されるに至っています。研究者の国が異なっていても同じ或いは近い系統のラットを用いて結果を出せば、それは実験の結果がダイレクトに反映されたものと解釈し比較が出来ることになります。この様な実験用のラットやマウスその他を繁殖して販売する企業は国内にも幾つかあります。




 次回からは、ラットを中心に据え、齧歯類の感染症の中でもヒトとの関係に於いて重要なものを採り上げて解説していきます。まぁ、公衆衛生分野の話題となります。








 

ネズミの話16 ドブネズミの生殖




2020年5月25日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの筆頭格?であるドブネズミのお話の第6回目です。




生殖とライフサイクル




 状況が整えばラットは年間を通して繁殖が可能であり、雌は年間5産まで為し得ます。妊娠期間は僅か21日間であり、産仔数 (litter size リッターサイズ と言います)は最大14頭ですが7頭が一般的です。5週齢で性成熟に達しますので、ラットにとって理想的な条件下では、これは、雌の人口が8週間(性成熟に5週間+妊娠期間3週間)で3.5倍(7頭の半分が雌として)に増大し得ることを意味する訳ですが、計算上は僅か15週で雌の個体数が10倍に増加する計算です。結果として、一年で2頭から15000頭までに増大し得る訳です。文字通りのネズミ算ですね。最大寿命は3年ですが、殆どの個体は1年も生存出来ません。年間の死亡率は95%と見積もられていますが、捕食されたり他種との争いが死亡の主因です。




 研究機関でラットやマウスを飼育する際は通例は委託動物業者に飼育管理を預けるのですが、彼らは餌と水を遣り、床敷き(針葉樹を削ったおがくずの様なもの)を定期的に粛々と交換するのみで中身には関与しません。それで研究者側が中身の確認を忘れていると、狭い飼育ケージの中にびっしりネズミが増えることにもなりますが、そうなると正直なところ、研究者としては三流の烙印を押されてしまい、委託業者側からは密かに軽蔑されることにもなります。人間の飼育下にある(と人間側が考える)動物に対しては生殖管理し得て初めて飼育の名に値する飼育となります。これが出来ていない様では動物飼育失格と相成ります。魚や昆虫等を含め、一般的な生き物飼育の場でも、子孫を上手く遺して継代に繋げんとの者と、只飼育している者との差は大きく、ペット業界で言うとブリーダーとお客さんほどの違いはあります。作物栽培の農家と消費者の関係にも類似します。まぁ、ネズミに関しては、内から沸き上がる様な恐るべき生殖パワーを持つことに違いはありません。

 下水道や穴蔵などの地下の場所や巣穴のいずれでも、ラットは大きなヒエラルキー構造のグループ内で生活します。食物供給が不足する時には社会順序の低いラットが真っ先に死にます。ラットの人口の大きな一派が死に絶えると、残りのラットが生殖率を増加し、急速に元の個体水準までに回復させます。

 雌ラットは出産後直ちに妊娠する能力があります。新たに妊娠しながら生んだ産仔を世話することが出来ます。自身の摂食量を変えることなく、正常な産仔数と体重値の健康なお産を2度繰り返し仔を育てることが出来ます。しかしながら、食餌が制限される時には妊娠期間を2週間以上延ばし、正常数並びに正常体重の子供を出産する能力があります。妊娠期間を胎児の成長具合で大幅に延長する能力は確かにヒトではあり得ない能力です。子宮内の胎児のサイズが分娩の発動成立に関与するのでしょうか?授乳中は雌のラットは24時間周期の母性行動を示します。産仔数が少なければ授乳により多くの時間を費やすのが普通です。ゆったりと授乳する訳ですね。




 雄は一度の交尾で複数回射精出来ますが、これは妊娠の可能性を高めます。複数回の射精は雄が複数の雌と交尾可能な事をも意味しますが、数頭の発情した雌が存在すればより多くの一連の射精行動を示します。雄はまた雌よりも短い間隔で交尾します。グループの中で雌はしばしば相手を交替します。優勢な雄はより高い交尾成功率を持ちより多くの回数射精しますが、これは、雌は優勢な雄の精子を受精の為により利用することを意味します。

 交尾に於いて、雌は以前に交尾経験の有る雄よりも見知らぬ雄の方と好んで交尾するのが明瞭に示され(これはCoolidge effect クーリッジ効果としても知られます)、また、新奇なパートナーと出会った時には止めていた交尾行動を再び始めることがしばしばあります。まぁ、番いを形成するのではなく、郡内乱交形態ですね。遺伝子のシャッフルを期待し、様々な遺伝子の組み合わせの子孫を遺す戦略の様です。そうすれば環境変動に対しても生き残る子孫が出てくる確率が高まりそうです。番いを形成して少数の産仔をじっくり育て上げる様な動物とは生殖戦略がだいぶ異なっています。

 雌は、若い時に社会的ストレスを経験していない雄と交尾するのを好みもします。どの雄が若い内にストレスを経験しているのかいないのかを、外見的には何らの違いの無い雄の性行為の内に、見分けることが出来るのです。ストレスを経験しているとは社会的に劣位にあることを意味しますが、それがストレスホルモンの分泌を増大させるなどして影響が出ていると言う事なのかもしれません。鋭い嗅覚で匂いの違いを感じ取るのでしょうか?ヒトの女性の場合は、相手の(不労所得ではなく自分で稼いだ)収入額なる簡潔明瞭且つ便利な指標を利用すれば取り敢えずの間違いは避けられますが、精神面での幸福な結婚生活が送れるかどうかとはまた別の話になります。この辺は皆さんご承知の通りです。








 

ネズミの話15 ドブネズミの食性




2020年5月20日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの筆頭格?であるドブネズミのお話の第5回目です。




食性




 ラットは真の雑食性で殆ど全てのものを消費しますが、穀物が食餌の基本になります。

 1964年に動物行動学会を設立した Martin Schein 氏はラットの食性を研究し、ラットの最も好きな食べ物は炒り卵、マカロニ、チーズ、生の人参、とうもろこしの粉で調理したものであるとの結論を得ました。彼に拠れば、最も好まれない食べ物は生の牛肉、桃、生のセロリとのことです。

 院長の飼育経験からも生の肉類、魚介以外には人間の食べるものは基本的になんでも食べてしまうとの印象を持ちました。まぁ、味覚は人間に近い様にも思えます。但し、柔らかいものばかり与えていると前歯(切歯)が伸びてしまいますので、飼育下のラットには石の様に固めた配合飼料(ペレット)を食べさせる必要があります。家ネズミの場合、餌で歯を磨り減らすことに不足すると周囲の物を片っ端から囓り始め、これが人家の場合は電線を囓ってショートさせる等の事故にも繋がります。電線の被覆のゴム部分に辛子成分を練り込んでラットの囓り害を防止せんとの電線が売られていると聞いたことがあります。

 雑食性で思い出すのですが、有袋類のオポッサムを飼育していた折にはイヌ用の肉の缶詰の中身で肉団子を握り、それをぽんと投げ与えると片手で掴みながら美味そうに食べていました。生肉も食べます。鶏卵は殻毎噛み砕いて呑み込んで仕舞いこれには驚きました。リンゴを始め果物も大好きなのですが、唯一穀類は一切食べませんでした。イヌ、ネコなどでもおにぎりやご飯を食べてくれる個体はそこそこいます(と言うか昔はご飯に鰹節を掛けてネコの餌にもしていました!)が、オポッサムは目の前に差し出しても見向きもしません。これらから考えると真の雑食性ではなく、動物性タンパク質中心の雑食性と言うことが分かります。なぜ頑なまでに(調理された/されていない)穀類に見向きもしないのか不思議です。何かブレーキが掛かるように感じました。逆に言えば、穀類を餌として相手に出来ることは相当に進んだ進化形態なのかもしれませんね。含まれているデンプンを上手く消化する生理機構を獲得したと言うことなのでしょう。どこにでも生えているイネ科植物の種子を餌に出来ればこれほど強い事はありません。ネズミは前歯(切歯)と臼歯が発達していますので穀類を細粒にし消化の助けにできそうですが、オポッサムでは歯牙は奥まで先が尖っていてイヌのものにも似ています。人間は加工し或いは調理した穀類は食べられますが生米や生麦の類いは駄目でネズミほどには進化していないとも言えそうです。穀類を食べることの出来るネズミが存在するゆえに、それを餌とする肉食獣や猛禽類が生存し得る訳でもあります。

 ラットの採食行動はしばしば集団特異的であり、環境や得られる食物により変動します。ウェストバージニアの魚の孵化場近くに住むラットは幼魚を捕まえて食べますし、イタリアのポー川の土手に沿う営巣地では軟体動物(貝類)を求め川に潜水することもあります。これらはラットが仲間の間で社会的学習を行う事を示しています。北海のNorderoog ノルダーオーグ島のラットはスズメやあひるにそっと近づき殺します。ハンティングする訳ですが知能もなかなか高いのでしょう。




 さて、ネズミと言えばチーズとのセットで考えられる程ですが、上記 Martin Schein 氏の調査の様に本当にチーズが好きなのでしょうか?

 2006年に Manchester Metropolitan University の Dr David Holmes がハツカネズミはチーズ(種類は不明)を好まず、寧ろ炭水化物に富むものを好む、との報告をした事を元に、2015年に英国BBCが再現実験行っています。

Do mice really prefer cheese?

http://www.bbc.com/earth/story/20150121-cheese-hating-mice


 ネズミとは言っても wood mouse (ヒメネズミによく似たヨーロッパに普通に棲息する野生ネズミ)での話になりますが、この記事の一番上に表示されるモノクロの動画では、確かにチーズの匂いを嗅いで確認はしますが食べずに通り過ぎ、次の炭水化物の餌を持ち帰っています。ブドウ、チェダーチーズ、ピーナッツを容器に盛っていますが、チーズが兎にも角にも一番大好きだ、と言う訳では無さそうです。尤も、これは只のお試しであり厳密な科学的な実験ではなく、単にチェダーチーズに魅力を覚えなかったからかもしれません。

 このBBCの実験報道に対しては、中島らがそれは単に新奇なものを怖れる行動であって本当はネズミはチーズが好きなのだ、と下記論文にて反論しています。


ラットおよびマウスにおけるチーズ選好

中島定彦ら

関西学院大学心理科学研究 41, 7-15, 2015

https://irdb.nii.ac.jp/01235/0002038058

(無料で全文読めます)


 この論文を読んで率直に感じましたが、固形飼料とチーズの2つを自由摂食させ、チーズの方を沢山食べたのでやっぱりネズミはチーズが好きなんだとの実験であり、正しく表現すれば、ネズミのチーズ嗜好性を証明した実験では無く、「実験用動物として飼育されるラットとマウスにて固形飼料とチーブを2つを並べたらチーズを沢山食べた」だけの結果です。嗜好性の強度を知るのは難しく、例えばチーズに到達出来るまでの経路の間に難易度を変えた障害物を置き、餌に対する<吸着度>から嗜好性の強さを探る実験系も構築し得るでしょう。BBCの実験は家ネズミではなく、普段人家に寄りつかない野生ネズミを使用したと見えますが、野生状態では存在しない妙な匂いのもの(乳を原料とする発酵食品)が有れば避けて通り、食べ慣れた類いのピーナツを食べるのが十分に予想もされることです。

 中島らは実験動物としてのラット、マウスを利用していますが、これらのネズミは上述の wood mouse とは異なり、食の嗜好性がヒトに近い動物である可能性があります。同じネズミと言ってもいろいろと嗜好性に多様性はある筈です。即ち、ドブネズミやハツカネズミは嗜好性がヒトに接近している、接近しているからこそ、ヒトの住居に侵入し食べ物を横取りする、当然乳製品も基本的に食べるだろう、との理解が成立する可能性はあります。他には、チーズには食塩が含まれていますが、一度食べ始めると食塩の含まれた餌を食べ続ける様な習性があり、チーズへの嗜好性よりもその様な理由が隠れている、との可能性があります。また、中島らは、上記の Martin Schein 氏のラットがチーズを好むとの仕事を引用していません。更に、固形飼料は伸び続ける切歯を磨り減らす意味を持ち、単なる餌ではなく、チーズと嗜好性の面で直接対照とするのが果たして適当なのかの問題も浮上します。

 以上のことから、院長がこの論文の査読を依頼されたら実験系の対照設定並びに解釈に偏りがあるとしてひとまず reject するでしょうね。読み手を感心させる様な巧みな実験系を組まないと素人やマスコミは兎も角、専門家のレフェリー側にはアピールしにくい様に感じます。可能ならば、対象動物の生物学的特徴を十分に踏まえた上で、その分野の専門家と組むのが矢張り望ましい様に思います。ネズミなる言葉でネズミを一緒くたに扱う視点がそもそも生物学的にどうかと言うところでしょう。

 まぁ、チーズにせよピーナツにせよ、脂肪分が豊富でカロリー量が高いですので、欲しがっても時々にした方が良いでしょうね。−と、ピーナツ&柿の種を食べながら毎夕ビールを呑んでいる院長が言ってみました。







 

ネズミの話M ドブネズミの社会とコミニュケーション




2020年5月15日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの筆頭格?であるドブネズミのお話の第4回目です。




コミュニケーション




 ラットには超音波での発声を行う能力が有ります。子ネズミの時は、母親の自分への探査行動を誘発する異なる型の超音波の啼き声を使い分けます。これは巣の中での母親の動きも制御します。ヒトの新生児も高い声で特有の泣き声を立てますが、母親側はその意味を頭で理解しつつも本能的に世話をする衝動に駆り立てられる筈ですが、まぁ似た様なものでしょうね。生後7日齢では子ネズミは周囲のどのネズミに対しても超音波を発声しますが、14日齢までには防御的な応答行動として、雄のネズミの回りでは有意に超音波発声を減少させます。成体のネズミも捕食者や危険を知覚した時にはそれに反応して超音波の声を発します。その様な啼き声の頻度と時間は雌雄の性別並びに繁殖的な状況に依存します。雌のネズミは交尾中にも超音波を発声します。

 ラットは、実験的にいつものモルヒネを投与される前、交尾する前やじゃれあう時、荒くれた転がり遊びの間に、短い、超音波の音声を発します。チュ−チュ−啼きと描写されるこの発声は、ヒトの笑い声に相当するものと喩えられて来ましたが、何か報償を期待してのものだと解釈されています。殆どのラットの発声と同様に、チューチュー啼きは人間には周波数が高すぎて特別の装置が無いと聞くことが出来ません。コウモリ探知機がこの目的の為にラットをペットとして飼育する者にはしばしば利用されます。

 研究に拠ると、チューチュー啼きは好感情と関係していることが分かりました。じゃれあい行動と共に社会的な結びつきが起こり、結果としてじゃれあいを求める習慣づけが起きますが、ヒトの子供がふざけ合いながら笑い声を立てる様なものでしょう。しかしながら歳を取るにつれチューチュー啼きする傾向は低下します。ヒトと同じで加齢と共に子供の様な笑いが少なくなる訳ですね。

 ラットはコミュニケーションを取る為にヒトが聴くことの出来る周波数の音も発します。飼育下のラットで最も普通に聞くものは歯ぎしり音ですが、これは極く一般的には幸福感が引き起こすものですが、例えば獣医を訪れるなどストレスの掛かる状況下で、自分を慰める行為である場合もあり得ます。この歯ぎしりはかちかち打ち付ける速い音からギシギシ言う音まで個体毎に変異が見られます。イヌなどでも好物を食べた後に歯をかちかち言わせる個体も見受けられますが、これと同列に理解すれば良いでしょう。

 更に、甲高い突発的な痛みの啼きから、他個体との対立時の柔らかく、持続する謳うような音に至るまで、ラットはキーキー啼きを普通に行います。

 モグラは普段全く声を発しない(調べれば超音波を発しているかもしれません)のですが、院長が飼育していたモグラが室内で什器の隙間に潜り込んだ際に捕獲しようと手を突っ込んだのですが、この時キューッと言う鋭い声を立てました。この時に噛み付かれた訳です・・・。




社会的行動




 ラットは互いに毛繕いしたり共に眠るのが普通に見られます。ピラミッド型の社会秩序(ヒエラルキー)を作り上げていると言われており、1頭のラットが他のラットの上に優勢となりす。ラットの1群は喧嘩遊びをする傾向があり、これはジャンプしたり追いかけたり転がったりボクシングしたりのあらゆる組み合わせから成ります。喧嘩遊びでは互いの首を狙いますが、本気の喧嘩では背中の後端を狙います。生活場所が限られてきた場合、遊びではなく攻撃的な行動に転ずることがあり、結果として何頭かのネズミの死を迎えますが生活空間への重荷を減ずることになります。

 ヒトの暴力の起源に関する考察は成書の形で現在でも数冊は入手可能ですが、社会密度が高くなると攻撃的な性向を持つ個体が<暴走>して反撃力の弱い相手をターゲットにする図式が見て取れますが、社会生活集団を形作りながらも、イジメを引き起こす哺乳類の根源的tかつ本質的な進化戦略(=習性)をラットから見る事が出来る、と言ってもけして大仰には思えないのですが如何でしょうか?言い換えれば、一種、<生きて行くことの持つ卑しさ>であり、ヒトはこれを自覚するが故に、文学、哲学、宗教が芽吹いたのでしょう。対社会的には、その様な衝動を抑えるべく社会のルールを幼少から厳しく躾け、せめて社会的体面としてのジェントルマンやレディーを精神面から育成するしか無かろうと院長は考えて居ます。ここに教育の力があります。勿論、暴力の当事者に対しては、社会的ペナルティを科すべきです。ヒトの社会の成り立ちの様も、この様に他の動物−サルなどに限定せず−の社会の成り立ちから見ると、また違った、或いはより合理的且つ深い視点からの、理解と解釈が可能になると考えます。

 殆どの哺乳動物同様、ラットも母親と若い子供達から成る家族グループを形成します。雄のグループ、雌のグループを作る場合もあります。ラットは縄張りを持つ動物ですが、他グループに対して攻撃的に活動したり、逆に見知らぬラットに対しては怯えたりもします。縄張りを守る際には、体毛を逆立てたりシューッという音を立てたりキーキー啼いたり尻尾を振り回したりします。

 ラットは互いに追いかけ合ったり、毛繕いしたり、グループの巣穴で眠ったり、レスリングしたり優劣を小競り合いしたり、コミュニケートしたり様々な遣り方で遊び合ったりします。団子になって積み重なり合う動作は、これは群れ化の極端な形態ですが、ラット個体の社会化には重要な意味を持ちます。これは体温保持に機能するものだと考えられており、生後すぐのラットは特に母親からの体熱に依存しますが、これは自身の体温調整が行えないからです。他の相互的行動には、他の個体の腹の下を這いながらくぐり抜けたり、背中の上を歩いたり、互いに毛繕いをしたり、首付近にそっと鼻を押し当てたりする行動などが見られます。









ネズミの話L ドブネズミの外観・感覚・行動




2020年5月10日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの筆頭格?であるドブネズミのお話の第3回目です。




外観




 ドブネズミ(以下ラットと呼称します)の被毛は粗く、茶色か灰色の色調ですが、腹側は色調が明るくなります。大型のネズミであり Black rat クマネズミ  Rattus rattus  (ネズミの中のネズミの意)の2倍の重さに達しますし、ハツカネズミMus musculus  (小さな、小さなネズミの意) の何倍にもなります。

 頭胴長は15〜28cm程度ですが、尻尾は10.5〜24cm程度で、頭胴長よりは短いです。尻尾は例えば幅の狭いパイプの上を水平移動する時などには明らかに転落防止のためのバランサーとして機能しますが、尻尾を利用して枝にぶら下がったりする機能は持ちません。この様な、把握機能を持つ尻尾のことを prehensile tail  プリヘンシル テイルと呼称しますが、尻尾単独でぶら下がり、体重を支持できる尻尾のことをそう呼ぶ例が一般的に思えます。クモザル、オポッサム、キンカジュウ、センザンコウなどがこの能力を持ちます。院長が子供の頃に読んだ本に、ラットが尻尾を丸めて鶏卵を把握して引っぱるのは本当ですかとの質問が掲載され、回答者もそれはないでしょうと答えていた記憶がありますが、矢張りそれは無さそうです。即ちラットの尻尾は prehensile  tail とは呼べません。尚、ラットの尻尾には毛はまばらで、表面がウロコで覆われており、オレンジ色の色素を分泌します。この尻尾は有袋類のオポッサムのものに外見的によく似ています。爬虫類と哺乳類の大きな違いの1つに、ウロコ vs. 毛皮の違いがありますが、ウロコの合間から毛がまばらに伸びる形態は、ウロコ→毛皮に進化する中間形態を示している可能性があります。遺伝子の解析を行うと面白ろそうです。

 成体の体重は140〜500gですが、例外的に900〜1000gに達したとも報告されていまが、これは飼育下以外では期待できないでしょう。餌を自由摂取させて運動不足となれば、骨格のサイズは成長が止まっていても、脂肪太りで巨大化します。ネコ並みに大きくなったとの話は誇張されたものであり、或いはヌートリアやマスクラット(ラット同様に水辺を好む)と言った他の齧歯類を見誤ったものです。実を言うとラットを育種すると通常は300g以下(時にはそれよりずっと下)となることが通常です。




感覚能力




 ラットは鋭い聴覚を持ち、超音波域までの感聴性を持ちます。また高度に発達した嗅覚も保有します。心拍数は300〜400回/分、呼吸数は100回/分前後です。ラットの視覚は毛色に色素の有るものでも貧弱で20/600前後です(正常者が600フィート 180m離れても視認出来る事物が20フィート 60cmに近づかないと視認出来ないレベル、ヒトでは盲人として判定される視力です、視力検査表の前にどんどん近づかないと見えないシーンを思い浮かべて下さい)が、一方、目にメラニン色素の無いアルビノの個体では更に悪く 20/1200前後且つ視界内で烈しく光を乱反射します。一部の動物ではタペタム(タペータム 輝板)と呼ばれる構造が網膜を裏打ちし、目に入ってきた光を反射します。夜行性の動物をフラッシュ撮影すると目が白く輝いているのがそれですが、ラットにこの様な構造が明確には存在しないとしても、外部からの光線を吸収する色素に欠ける為、光を眩しく感じる訳です(羞明 しゅうめい)。ヒトでもアルビノの方はこの様な理由から弱視傾向にある、と理解出来るでしょう。

 ラットはヒトの赤緑色盲者にも寧ろ似て2色を知覚しますが、色の彩度を感じ取る力は非常に弱いです。しかし乍ら、青色への知覚は紫外線域までの受光能力を持ち、他の種では見ることの出来ない紫外線を見る能力を備えます。紫外線をキャッチ可能な特殊な細胞が存在する訳ですね。モンシロチョウなども雌雄で羽根の紫外線反射率が大きく異なり、見分けが容易に付くと聞いたことがありますが、ラットも紫外線反射率が判り、モノの見分けが容易なのかもしれません。

 2007年の研究に拠れば、ラットがメタ認知機能(自分の思考や行動そのものを対象化し客観視して認識できる能力)を持つことが発見されましたが、これはヒトと幾つかの霊長類にのみ以前に知られていたことでした。しかし更に解析したところ、これは単なる条件付けの原理に従うものであることが示唆されました。




行動特性




 ラットは夜行性で泳ぎは上手で水面を泳ぎ進める事も潜水も出来ます。確かに水恐怖症ではないと見え、院長が学生時代に飼育していた巨大サイズのラットはぬるま湯に行水させると気持ち良さそうにしていました!

 哺乳類を全般的に眺めると、実は水泳が出来ない方が稀と言えます。ナマケモノですらアマゾン川が増水して林床がプールとなった際には泳いで別の樹木に取り付きます。寧ろ地べたを這いつくばってのろのろ四足歩行して移動するよりは浮力の助けもあり好都合に見えます。

 院長が飼育していたモグラで試しましたが、上手い泳法には見えませんでしたが一応泳げました。ぬるま湯の中を泳がせたのですが、湯がオレンジ色に染まり驚きました。視覚が不十分な分、オレンジ色の汗?を分泌して強い体臭を放ちマーキングに利用している模様ですね。余談ですが時々金色のモグラが捕獲されたと報道される時があるのですが、写真を見ると腹部のみオレンジ色になっていたりします。これをぬるま湯の中を泳がせると色素が抜けて只のアルビノのモグラとなるかもしれません。いわゆる哺乳動物学を研究している者はこの様に対象動物の生理解剖学的知見にからきし弱い様には感じています。獣医の院長からすると動物の外側だけ、上っ面を一生懸命探っている様に見えてしまうのです。尤も、その様な世界に形態学の知見・技能を保有している研究者が躍り出て、その分野で頂点に君臨するのも情けなくもありますが。学問の分野では鶏口牛後は慎むべきで、研究対象とはがっぷり四つに組むべきと考えます。学問に王道はありませんが、競争相手の居ない楽な小道に進む (素人・一般人相手にモノを言う、他の研究者が追試できない動物材料をせっせと扱う) のは如何なものかと思います。

 モグラとは5万倍ほど体重の重い巨体のゾウもまともに水泳できます。立派なシュノーケルを備えていますので溺れる事も滅多になさそうです。これに対し、霊長類は反重力方向に伸びた樹木を生活の場とする方向に進化しましたので、水とは縁が切れてしまい、自発的に水に入り好んで泳ぐ種は大変少ないです。院長も大小類人猿が水泳する動画を見たことはなく、葉食性のサルであるテングザルが枝から川に飛び込むのは知っていますが泳いで岸に戻るのかは確認し得ていません。国内外含めて、例えば、フクロテナガザル(大音声でコミュニケーションを取り合う)の展示施設は、周囲を水路で囲った島に放し飼いするケースがありますが、水泳が得意であったらこれでは脱走されてしまいますね。動物の水泳行動については後日別個に纏めたいと思います。

 細い金属製の丸棒を1m程度登攀し庭にしつらえた鳥の餌場に到達した例が報告されていますが、院長の考えではラットは基本的に垂直の媒体を抱え込んでそろりそろりと登攀する能力に乏しく、体重の軽いコドモラットであればこれは何とか可能だったのかも知れません。何度も繰り返しますが、体重が軽ければ様々な様式の運動が可能になりますが、一定以上の体重になるとその種固有の運動様式しか取り得なくなりますし、また筋骨格系もそのように進化してその動物の形を作っています。

 ラットは穴を掘るのが巧みで広範囲の隠れ場所をしばしば掘り進めます。もし穴掘りに適した媒体(土など)に接近出来ればですが、野生化、飼育下の両方でラットは広範囲に巣穴を掘ることが知られています。ターゲットとする構造物にすぐ接近した場所に新たな巣穴を堀り始めるのが普通ですが、こうやって既存の巣穴の上に新たな巣穴を加えもする訳です。結果として、巣穴はたいていは第2の出入り口に加え、多層階のトンネル構造に発展します。老齢の雄ラットは普通は穴掘りはしませんが、一方、若い雌雄は精力的に巣穴を掘ります。

 巣穴はラットに温度が調整された安全なねぐらとなる他、隠れ場と食料貯蔵の場を提供します。周囲の環境に脅威を知覚した時には巣穴を逃げ場として利用します。例えば、突然の大きな音を聴いた後で、或いは侵入者から逃走する際には巣穴に待避します。それ故、巣穴掘りは<前−敵回避防衛行動>と記述され得、飛翔、凍りつき、脅威刺激回避と言った<後−敵回避防衛行動>とは逆のものとなります。院長としてはこの様な動物行動学の概念や用語の命名については、失礼ながら当たり前過ぎることに名前を付けたりと随分悠長な学問と正直感じます。心理学、即ち文学、人文科学の範疇であって自然科学とはちょっと違う様には感じます。正直なところ、ヒト以外の霊長類 (non-human primates と呼称します) を含め、一部の動物行動学や動物心理学の論文を読む度に違和感を覚えることが多いのです(勿論、優れていると感じる論文は多々あります)。なんとなればそれら解釈はヒトの心理特性のフィルターを介しての対象理解に過ぎないからです。皆さんはどうお考えでしょうか?







 

ネズミの話K  ドブネズミの分布




2020年5月5日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 家ネズミの内の筆頭格、ドブネズミのお話の第2回目です。




分布拡大と棲息環境



 アジアの平原、中国北部とモンゴルに起源し、中世のとある時に世界の他の部分に広まった可能性があります。ヒトといつ片利共生になったのかの疑問は解決されていないままですが、種としては、ヒトの移動に伴い拡散し住む場所を確立し今やヒトが住む殆どの場所で生きる動物です。

 早、1553年にはドブネズミはヨーロッパに存在していた可能性がありますが、これはスイスの博物学者Conrad Gesner の著書 Historiae animalium (1551-1558 年刊)の挿絵と記述から得られた結論です。Gesner の記述はクマネズミにも当てはまるものですが、ドブネズミの野生個体群には観察されなくもないアルビノのネズミに関する記述に大きな比重を置いていることが、この結論に信憑性を加えます。18世紀に至る信頼できる報告書では、1722年にアイルランドで、イングランドでは1722年に、フランスでは1735年、ドイツでは1750年、スペインでは1800年にドブネズミが存在したことを記録していますが、産業革命の間に広範囲に拡散した訳です。北米に到達したのは、1750-1755 になってからでした。

 江戸中期の1712年に大坂の医者寺島良安が出版した和漢三才図会(わかんさんさいずえ)の巻第三十九鼠類に、肝臓が7葉に分離し小葉の間に大豆大の真っ白の胆嚢があるが貼り付いていて下垂しない旨の記述があり、これは独立した臓器としての胆嚢を欠くドブネズミのものと取れる記述があります。1712年以前には本邦には確実にドブネズミが到来していたことは間違いがなさそうです。外見等のみからだけではなく、内部形態を観察して科学的記述を行っている点で、欧州より日本の方が進んでいたようですが、英語版、日本語版 wikipedia の著者はこれを知らない模様です。これに先立つ600年前の12世紀の鳥羽僧正作と伝えられる鳥獣人物戯画には甲巻の第16紙前後に、ウサギに立位で寄り添うネズミが2匹描かれているのですが、家ネズミではありそうなものの、ドブネズミとは確定できません。ハツカネズミやクマネズミの可能性もありますね。中国本土での都市部や港湾への侵入拡散がいつの頃だったのか残念ながら院長は情報を持って居ませんが、日中間の朝貢や大陸との貿易を通じて早期に日本に入っていた可能性はありそうです。

 アジアから拡散するにつれ、ヒトの生息環境ではクマネズミに取って代わることが普通に起きました。より大きくより攻撃的であることに加え、藁葺きで木材建築の建物からレンガとタイルの建物への変化が登攀性のクマネズミより穴掘り性のドブネズミに好都合に作用した訳です。更に、ドブネズミは食性もより広く烈しい気象変動にもより強い耐性を持っていたからです。確かに都会ではビルの店子に入る飲食店等の下水の地下通路を通じての移動拡散とネットワーク構築はドブネズミには都合が良さそうですが、木造住宅の建ち並ぶ日本の住宅街では天井裏などの高所にまだまだクマネズミが勢力を保っている様に感じます。

 ネコがネズミを追いかける有名な米国製のカートゥーン(トムとジェリー、但しジェリーはハツカネズミですね)が有りますが、確かにネズミは壁に掘り進んだ穴に棲息していますし、そこにチーズを引っ張りこんだりもします。

 ヒトの居ないところでは川の土手のような湿った環境をより好みます。とは言うものの、大多数のドブネズミは現在ではヒトが作り出した環境−例えば下水システム−に関わって生活しています。.



 街中にはヒトと同じ数のドブネズミが居るとしばしば言われますが、気候、生活環境その他でこの数は変動します。

 街中のドブネズミは広範囲にうろつき回る事は無く、もし食物が集約的に入手可能あれば自分の巣からは20m以内に留まることがしばしば見られます。食物入手性の低いところでは行動範囲はより広くなります。食料貯蔵庫、狩り場のごく近くにドブネズミが居を構えていると言う訳ですね。

 生息域がどの程度の広さを持つのかを決定するのは難しく、なぜなら縄張りの領域全体を利用することはなく、寧ろ、1つの場所から別の場所に移動する際には決まり切った通路を利用するからです。ニューヨークに何頭棲息するのかについては烈しい議論がありますが、少なくとも25万頭と見積もられています。専門家は、老朽化したインフラと高い貧困率ゆえに、ドブネズミにはニューヨークは特別に魅力的な場所だろうと示唆しています。下水道に加え、路地や住居には豊富且つ継続的な食料源があるのでドブネズミには快適な生活が送れるのです。

 英国ではドブネズミの人口が増大して8100万頭と見積もられるとされていますが、これは国民1人当たり1.3頭が棲息する計算になります。英国での数が多いのは、穏やかな気象の所為にされますが、冬期の生存率が高くなるからです。地球の温暖化と氷河の退縮に伴い、ドブネズミの数は増加を見るだろうと見積もられています。



 ドブネズミの棲息しない唯一の世界は南極大陸と孤立した幾つかの島嶼群であるアルバータのカナディアン地方並びにニュージーランドの、と或る保護地区のみです。南極はほぼ完全に氷に覆われており、ドブネズミには棲息不能の場所となっています。船舶で多数の海岸に到達したところで、極度に寒冷な冬期には屋外では生存出来ず、また活動するヒトの密度が極度に低いので、一つの生息場所から他の場所へと旅をすることは困難になります。たまたまドブネズミの侵入が発見され駆除されると、隣接する場所からの再侵入が出来ない訳です。孤立した島嶼もドブネズミの集団は駆除可能ですが、これは同じくヒト集団の低密度さと他のドブネズミの集団からの地理的距離の為です。

 ニュージーランドには元々は哺乳動物としてはコウモリが2種類棲息するのみで、脊椎動物としては地上には爬虫類と両棲類のみが棲息していました。有袋類もいませんでした。爬虫類の中のムカシトカゲ(ムカシトカゲ目 Sphenodontia)が唯一現存する地域でもありますが、トカゲに外見の似たこの爬虫類(いわゆるトカゲの属する有隣目とは系統的に少し離れる)には頭のてっぺんに第3の目が明瞭に観察されることで有名です。目とは言ってもヒトにも存在する松果体が上方に発達して光感受性能を増大させたものと考えて良いと思います(ペットのトカゲを見ると頭の天頂に1箇所他とは違ったウロコが有りますがそこが第3の小さな目に相当します)が、ちよっと変わった爬虫類です。ちなみに相当以前の話ですが、院長が研究用途としてこのムカシトカゲを入手出来ないものかと知り合いの動物輸入商に相談したところ、現地でマオリ族を雇い、夜陰に乗じて小舟で棲息する島に上陸し捕獲すれば手に入ると言われました。1頭100万円で成田まで請け負うとの事でしたが、どうも保護された個体を密猟して日本に持ち込むらしいと途中で判り、そりゃさすがにマズいだろうと話を中断したことがありました。− この様に他の地域や島嶼では絶滅した特殊な生き物が生き残っているのがニュージーランドですが、人間が持ち込んだネズミ、フクロネコ、イヌなどが、特に飛ぶのを止めてしまった鳥たちやその卵を格好の餌として狙い、絶滅させ、或いは絶滅に追いやっています。この状況に関しては、以下を是非お読み下さい。飛べない鳥に関しては後日纏めて本コラムにてお送りする予定です。


Predation of native birds

https://www.sciencelearn.org.nz/resources/1159-predation-of-native-birds




次回からドブネズミの生物学的な特徴の話に入ります。








 

ネズミの話J  ドブネズミとは




2020年5月1日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 日本の野生ネズミについてお話してきましたが、皆様お待ちかね!の家ネズミと行きましょう。ハツカネズミも家ネズミでもあるのですが、野生ネズミの項で既に触れています。それ以外と言うと・・・。苦手な方はこの先を読まない方がいいかもしれません。




ドブネズミ Brown rat  Rattus norvegicus




 和名ではドブネズミとの非道い命名!ですが、英語名は Brown rat 茶色ネズミとだいぶマシな命名です。いわゆるネズミとして世界中で最もよく知られ、また普通に見られるネズミになります。

 ネズミ上科では最大級のものの1つです(中国で食用とされるタケネズミも巨大)が、頭胴長は27.5cmに達し尻尾はそれよりは幾分短い程度です。体重は140〜500g程度、茶色、或いは灰色の体毛に覆われます。院長が学生時代に実験で利用された残りの個体を引き取って研究室内で飼育していました(自宅に引き取って飼育していた個体もあります)が、その個体は吻先から尻尾の先まで50cm程度に育ちました。畑から掘り出した巨大なサツマイモ並のサイズで、マウス飼育用のアルミ製ケージに押し込むと身動きが取れなくなる程のサイズでした。実験用に供されるドブネズミは日本では通称ラットと呼ばれますが、系統群により成体のサイズには可なりのバリエーションが存在します。30年以上前に渋谷で呑んで朝帰りする際に山手線のガード下に巨大なドブネズミが蠢くのを目撃しました。コロナ禍で人出の途絶えた渋谷ではドブネズミの目撃がまた相次いでいる様ですが、その大きさに驚く方も多いと見えます。渋谷は地名通りの谷底で、地形的にはすり鉢の底に位置し、明治通り沿いに原宿に進む以外は全て上り坂になります。渋谷川が暗渠化されて下を流れていますが、ドブネズミには理想的な住まいになりそうです。

 ヘタに保定しようとすると暴れて噛み付かれますので、一瞬で後頭部から背中に掛けての皮膚をがっちり掴むと良いでしょう。尤も、これは研究用に飼育されている微生物学に素性の知れたラットの場合であり、そこらに棲息しているドブネズミはどんな危険な感染症を持って居るか不明ですので絶対に手出しは出来ません。

 中国北部原産と考えられていますが現在は南極大陸を除く全大陸に広がり、ヒトに次いでこの惑星上で最も成功した哺乳類と言えるでしょう。稀な例外を除き、ヒトが棲息するあらゆる環境に生存可能です。選択的交配を通じてペット用、動物実験用の各種ラット(正確には品種)が作出されて来ています。

 以下、英語版 Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Brown_rat の記述を中心として詳しい解説に入ります。



学名の由来




 このネズミはノルウェーのネズミを意味する学名 Rattus norvegicus  ラットゥス ノルウェギクス を附けられていますが、ノルウェー原産ではありません。しかし、1769年出版の『英国自然史の概略』 の著者である John Berkenhout がこの誤った命名を附けた本人です。彼は、1728年のノルウェーからの船舶が英国に悪しき導入を招いたと信じ、この学名を与えたのでした。

 19世紀の初頭から中頃まで、英国のアカデミーはドブネズミはノルウェイ原産ではなく、アイルランド、ジブラルタル由来、或いはウィリアム征服王(に拠るノルマン・コンクエスト)に伴い英国海峡を渡りもたらされたのだろうと誤って仮説を唱えていました。しかしながら、早、1850年にはドブネズミの原産に関する新たな仮説が広まりつつありました。チャールズディケンズが自身発刊の週刊誌にほぼ丸一年に亘り、以下、したためています:「今や最も良く知られたネズミであるドブネズミの原産国に関しては謎が存在する。書物その他でノルウェーラットと頻繁に呼ばれるがノルウェーからの材木船に乗り英国に移入されたと言われている。だがこの仮説に反することだが、我が国でドブネズミが普通に見られる様になった時、ノルウェーにはレミング以外に小さなネズミは居たものの、ドブネズミは知られていなかったのである。」

 何故ノルウェーから材木を輸入していたか、ですが、ブリテン島にはまともな森がなく、家具や住宅建材の材木を対岸のノルウェーから手っ取り早く買い付けるしかなかったからです。余談ですが、ビートルズの Norwegian Wood とはそのままノルウェーの材木(からこしらえた家具、家そのもの)の意味であり、ノルウェーの森、a forest inNorway の意味はありません。材木が不足していますので古びた家具を再生して長く使い続けるなどの伝統も見られますが、日本では森林資源が豊富でしたので家具も家屋も朽ちるとあっさり廃棄、更新する文化であり、大きく異なっています。但し、劣化した木材そのものは惜しみなく廃棄はするものの、設計図、木工芸の技能は大切に守る文化はあります。まぁ、ドブネズミが何故ノルウェーのネズミと呼ばれるかの経緯を知っていればこの誤訳も避けられたかもしれませんね。学術の世界に限らず言葉一つ一つの背景を煮詰めることが肝要で、勝手なイメージを膨らませては一人で喜んでいては笑止です。

 さて、19世紀の終わりに向かい、英国アカデミーも Brown rat なる別称を好んで使うようになり始めました。例えば、アメリカ人の学者である Alfred Henry Miles は1895年の自然史(=博物学)の中で、「ブラウンラットは英国では普通に見られる種であり、世界あまねく最も良く知られた種である。過去200年以内にペルシャから英国に旅をし、そこから英国船舶が訪ねた国々に広まったと言われている。」と書いています。

 このネズミの起源を取り巻く当時の仮説は近代のものとはまだ全く同じでは無かったものの、ドブネズミはノルウェー起源ではない、いや寧ろ中央アジアと(おそらく)中国から遣って来たのだと博物学者の間では信じられていました。







 

ネズミの話I 日本の野生ネズミY キヌゲネズミ科A




2020年4月25日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

日本の野生ネズミのお話の第6回目です。




ハタネズミ  Japanese grass vole  Microtus montebelli

 英語版の wikipedia ではハタネズミはキヌゲネズミ科ハタネズミ属  Microtus に分類されていますが、一方日本の wikipedia ではハタネズミ属  Microtus はネズミ科に分類されています。本項では英語版に倣いキヌゲネズミ科として扱います。Microtus とは耳が小さいの意味ですので、そのずんぐりした体型からも vole 即ちズングリネズミ であることには間違いはありません。ハタネズミの仲間はヨーロッパからユーラシア大陸に掛けて、深い森を除くあらゆる草地、河川敷や畑地、低地の草原に生息しています。人間の文明の拡大と共に生息域を広げ、人家近くでは緩い傾斜地を好み棲息します。それが各地で固有種 (と言っても違いは僅少) に分化を遂げたのでしょう。草食性ですが、栽培された穀物も食べます。

 本邦のものは、大きさは頭胴長約 90〜130 mm 、尾長約 30〜50 mm 、体重約 40〜50 g ほどです。背面の毛色は茶色または灰黄赤色で、腹部は灰白色です。

 草の間の地面の上を線路の様な通り道を作って移動し、このルート以外には滅多に外れません。登攀能力には乏しい動物です。体型を丸っこくすれば四肢に掛かる抗重力方向の力の負担が増し、登攀には不利になりますが、一方、腹面や浮力で体重を支えながら四肢で水平方向に移動する動作に問題は起きず、身体に余計な出っ張りのない体型は、体温保持の利点以外に前進への抵抗を減らす利点も有ります。ハタネズミは地中 30〜40 c mの深さに巣穴を掘り、ここに食物を貯えます。雌はテリトリーを持ちますが、雄は複数の雌との間に繁殖を行うべくテリトリーを持たず、流れ者の様に移動します。こんな訳で雄の行動範囲が 1200〜1500 平米であるのに対し、雌は 300〜400 平米に留まります。個体密度が増えればこれらは共に狭くなります。

 雌は生後 13日 で妊娠可能となり、16〜24日 後に 3乃至 8頭 を出産しますので、最短で生後 33日 で子供を産むことになります。3月から10月ころまで、通常 3回出産します。平均寿命は僅か 4〜5ヶ月 ですので 10月に生まれた子供が冬を越えて生き残り、他は死に絶え、春になって出産を開始します。出生時には性比は雌雄 1対1 ですが成熟するに連れて雄が減り、雌対雄が 3対 1〜4対 1 程までになります。生息密度は 3年から5年周期で変動し、1ヘクタール当たり 100個体から 2000個体にまで増減します。大発生時には繁殖率が自ずと低下することの他、餌の質や量、光の問題、或いは捕食されることなどを通じて個体数が減少します。1ヘクタールは10000平米で 100m四方の正方形の面積ですが (ヘクトとは10の2乗の意味、1ヘクタールで1アールの100倍)、それに 2000頭が棲息するとすれば、1アール 10m四方当たり 20頭の計算となり、確かに多過ぎなぐらいの密度ですね。肉食獣や猛禽類、爬虫類の栄養の元であるのは間違いなさそうです。




エゾヤチネズミ Japanese grey red-backed vole

Myodes rufocanus bedfordiae


 本種はタイリクヤチネズミ grey red-backed voleMyodes rufocanus の1亜種で、種としては北海道からシベリア、スカンジナビアを含む北ヨーロッパに掛けて東西に延びるベルト地帯に棲息しています。北海道に閉じ込められて種分化しつつある初期にあると考えて良いでしょう。頭胴長は11〜14cm,。尾長は 2.5〜4.5 cm 程度、体重は約27〜50 g です。他のヤチネズミに比べて毛色の赤みが強くまた大型です。カンバ林や針葉樹林の、川辺で下草が生い茂る場所、岩石地帯に棲息しますが、森の中の開けた野原、荒れ地、乾いた沼地などにも棲息します。基本的に草食で、ビルベリー (ブルーベリーの小粒のもの)を好みます。ツンドラ地帯では 4,5年周期で爆発的に増えますが、この現象は北海道では観察されない様です。レミングも発生頻度はタイリクヤチネズミよりは落ちますが、同じ年に更に爆発的規模で増大します。これはタイリクヤチネズミが冬には繁殖しないのに対し、レミングが冬の間も繁殖することが理由の1つと考えられています。北海道ではキタキツネとエゾヤチネズミとの間で寄生虫エキノコックスの生物環が既に成立していますが、その環の中にヒトが入り込むと、いつまでも成熟し得ない幼虫が人体内で増殖し続け重大な症状を引き起こします。エキノコックスに関しては、2020年10月20日、25日付けの院長コラムにて詳述していますので是非ご覧ください。




スミスネズミ  Smith's vole  Myodes smithii


 スミスネズミは日本固有種で、生息域は東北地方南部までの本州、四国、九州に分布しています。低地から高山帯までの森林や山間の畑などに生息し湿潤な所を好みます。頭胴長は約7.5〜11.5 cm、尾長は約3〜5.5 cm、体重は20〜35 g 程度です。植物の根や茎や種などを餌にしています。石灰質の多い土壌を好むため、この条件に適した四国で大発生することがあります。


 種小名は 1904 年にタイプ標本(種名を付けた根拠となる実物標本)を六甲山で採集したゴードン・スミス氏に由来します。博物学的な発見、詰まりは新種を発見して自分の功績を学名として残そうとの機運は、特に英国人には根強い様に院長は覚えますが、スミス氏もその一人でした。現在でもプロとしてのアニマルハンター、プラントハンターが存在し、例えば大富豪に探検のスポンサーとなって貰い、新種が得られた暁にはその大富豪の名を種小名として名付けるなどは特に珍しくもなく見られることです。院長も以前育てていましたが、アツモリソウなどのランに近い仲間の原種Paphiopedilum rothschildianum パフィオペディルム ロスチャイルディアーヌム など説明するまでもないでしょう。


 本種に関しては系統上の位置づけに数多くの議論が展開されてきています。一生を通じ臼歯(後臼歯しか存在しません)が成長を続け、この特徴から一度は Phaulomys属として分類されたことも有ったのですが、ミトコンドリア並びに核リボソームDNAの研究の結果、日本のタイリクヤチネズミ Myodes rufocanus及びセョウセンセアカヤチネズミ Myodes regulusに系統的に近いことが示され Phaulomy 属に分類することは全く支持されなくなりました。スミスネズミの成長し続ける臼歯については、現在では、日本固有のMyodes 属の祖先に発する独立的な特徴だろうと信じられています。しかし前歯も一生伸び続け後臼歯も伸び続けるとは或る意味大変そうですね。残念ながら院長は現物を観察した経験は有りません。ゾウの牙(実は前歯、切歯)も伸び続けますが、伸び続ける、一定のサイズの歯牙に留まる、の違いはどのような機構に基づくのか、遺伝子の作用含めてご存知の方が居られましたら院長まで是非ご一報下さい。



 今回で本邦に棲息する野生ネズミのお話は終わり、次回からは人間と関わりの深い!ネズミのお話に入ります。








 

ネズミの話H 日本の野生ネズミX キヌゲネズミ科@




2020年4月20日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

日本の野生ネズミのお話の第5回目です。




キヌゲネズミ科 Cricetidae とは


 従来はネズミ科の動物として分類されていたものですが、それが2005年になり、キヌゲネズミ科として分離・独立させるとの学説が提出されました。但し、この分類法並びにこれが含む動物の範疇が全ての研究者に受け入れられている訳ではありませんが、院長の当コラムではこの学説に倣いキヌゲネズミ科としてお話を進めます。

 およそ680種から構成され、哺乳類としては2番目に大きな科となります。

 確かに、キヌゲネズミ科のレミングやハムスターを見ると他のネズミ科の動物とはちょっと異なり、体型も寸詰まりで丸っこい外形です。尻尾も短めですね。しかし、キヌゲネズミ科の動物は様々な環境に適応していて、バランサーとして働く長い尻尾を持つ登攀性のものもいれば、ずんぐりした体型で耳のサイズの小さな半水中性の種、或いは地上で生活し地中に穴を掘る種など多様性に富みます。必ずしもハムスター風の外見とは限りません。系統関係を見つめ直す過程で、将来的にまた分類の変わる動物も含んでいる様にも感じます。実際、wikipedia での記述が各国のもので統一が取れておらず、属名にも混乱が起きており、記述されている意味が掴み取れないものもあります。

 身近な例としては、ペットとして広く飼育されるハムスター(乾燥地への適応)、或いは<集団自殺する>ので有名なレミング(寒冷地、水環境への適応、これもペットとして販売される)、日本のハタネズミ(林地、草地への適応)などからも、様々な生息環境に適応していることが窺い知れますね。自ら進んで人家に侵入する動物ではありません。人間側が勝手に取り込んで室内で飼育する動物です。




vole とは


 小型でずんぐりした体型で耳が小さく尻尾の短めのネズミを英語でvole と総称するのですが、ハタネズミなどのキヌゲネズミの仲間の多くがこれに含まれると考えて宜しいと思います。和訳すればズングリネズミとでも言えそうです。以前のコラムにてヤブイヌについて扱いましたが、彼らは水中生活への適応で耳が小さいと考えられています。vole も地中或いは水中に潜る適応から耳が小さいと考えて大きな間違いでは無いと考えます。因みにモグラ−耳介は失っています−のことは mole と呼びますが、mole vole モグラズングリネズミ? なる地面に潜るのが大得意なキヌゲネズミ科  Ellobius  属の動物も居て混乱させられます。

 この属の以下の2種はネズミ科のトゲネズミの仲間同様にY染色体を持たず両性の性染色体セットは共に XOです:

 コーカサスモグラネズミ Transcaucasian mole vole  Ellobius lutescens 

      アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア、イラク、トルコに棲息

 キタモグラネズミ Northern mole vole  Ellobius talpinus 

      東ヨーロッパとアジアに棲息


 更にははたまた ザイサンモグラネズミ  Zaisan mole vole  Ellobius tancrei  別名 ヒガシモグラネズミ eastern mole vole ではY染色体が無いどころか雌雄の性染色体セットは共に XXです! まぁ、これら3種は、雄を決定づける別の種類の遺伝子が別の場所 (体染色体側) に存在し、雄の性発現に責任を持つと言うことなのでしょう。トゲネズミでのこの辺の進化については前回コラムにて論文を紹介していますのでご覧下さい。まぁ、なんとも変わっているのは確かです。







 

ネズミの話G 日本の野生ネズミW トゲネズミ




2020年4月15日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 本邦に棲息する野生のネズミの内、哺乳動物学的にもちょっと特異なところのあるトゲネズミをを紹介します。トゲネズミもネズミ科の動物です。


  トゲネズミの名を初めて耳にされる方も多いのではと想像しますが、沖縄の島嶼に封入され長時間が経過し、独自の進化を遂げてきたネズミと考えて間違いは有りません。まぁ、世界から何かとガラパゴス呼ばわりされる本邦の中の、更にお師匠様級のガラパゴスネズミと言っても良さそうです。

 トゲネズミ属は、南西諸島の森林に生息する本邦固有種(いずれも天然記念物)であり、全身が先の尖った毛で覆われています。染色体数及び性染色体の構成の違いから以下の3種に分類されています。  

オキナワトゲネズミ Tokudaia muenninki 染色体数 2n=44、性染色体 XY型、沖縄本島北部。

アマミトゲネズミ Tokudaia osimensis 染色体数 2n=25、性染色体 XO型、奄美大島。

トクノシマトゲネズミ Tokudaia tokunoshimensis 染色体数 2n=45、性染色体 XO型、徳之島。


 哺乳類一般の性染色体は雌個体でXX、雄個体でXYですので、染色体数が奇数であることも含め、アマミトゲネズミとトクノシマトゲネズミは一体どうなっているんだと疑問に思われたのではないでしょうか?ヒトの場合、Y染色体を持たずに生まれるとXOとなりますが、外形は女性形であるもののターナー症候群と呼ばれる状態になります。逆にOYの場合は出生はしません。まぁ、母は強しでX染色体の力がある意味強く、Xが無いと生存出来ず、Y染色体が伴うとやっとこさ男になるとも言えそうです。アマミトゲネズミとトクノシマトゲネズミは雌雄がそれぞれXO型の性染色体セットを持つのですが、雌雄が現に存在し交配して子孫を遺していますので、Y染色体に代わる、雄の性を決定づける「因子」がどこかに必ず存在していなければなりません。

 オキナワトゲネズミの方は哺乳類一般型のXY型ですが、X,Y染色体共に異常に巨大化しています。これに関してもなにやらありそうですね。


<Y染色体はどこへ行った?>の問題に関しては、トゲネズミ属の進化を含め、北大の村田氏らが2012年に以下の大変面白い論文を発表しています。

https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs10577-011-9268-6

The Y chromosome of the Okinawa spiny rat, Tokudaia muenninki, was rescued through fusion with an autosome

Chie Murata, Fumio Yamada, Norihiro Kawauchi, Yoichi Matsuda & Asato Kuroiwa

Chromosome Research volume 20, pages111-125(2012)

(全文無料で読めます)


 結論を言えば、オキナワトゲネズミが巨大なX,Y染色体を持つのは、体染色体(染色体は体染色体と性染色体とのセットから成ります)の一部が性染色体に融合したからであり、アマミ並びにトクノシマトゲネズミは別の進化過程でY染色体を失ったのだろうとの考察です。


 アマミ並びにトクノシマトゲネズミがY染色体を失ったのには3通りの過程が考えられます:@Y染色体が体染色体に転座して融合した、AY染色体にリンクしている性決定の遺伝子がX染色体或いは体染色体上の別の遺伝子に取って代わられた、BY染色体の性決定遺伝子を含む部分がX染色体に転座した。これを考察しようとの論文です。


 Y染色体全体が雄への性決定に責任を持つ訳では無く、一般的な哺乳類では、Y染色体の中に位置するSRY遺伝子が性決定への責任遺伝子となります。しかし、アマミ並びにトクノシマトゲネズミではSRY遺伝子自体も消失していますので、それに成り代わる性決定遺伝子が体染色体上に存在するのではと検索を進めたところ、CBX2なる遺伝子が体染色体にあり、これがアマミ並びにトクノシマトゲネズミでは雄は雌に比して数倍遺伝子コピーの数が多いことが過去に判明しています。まぁ、上のA+@が答え、即ち、Y染色体がX染色体に融合して姿を失い、体染色体中の別の遺伝子が雄の性を決定づける、と言うことになります。

 オキナワトゲネズミはY染色体を保有するものの、SRY遺伝子の性決定タンパク質を発現する作用が弱いことも判明しています。体染色体がY染色体に融合し巨大化しましたがこれを通じて、トゲネズミの共通祖先の段階で作用の弱くなっていたSRY遺伝が数を増やしまだなんとか性決定を担っているが、一方、アマミとトクノシマトゲネズミでは、3種のトゲネズミの共通祖先の段階でCBX2 遺伝子がコピー数を増やしSRYに成り代わり雄の性決定に強く関与していた状態のままに、Y染色体並びにSRY遺伝子も失った(実際にはY染色体の遺伝子の多くはX染色体に転座している)とのストーリー展開です。

 トゲネズミ属は性染色体の独立存在性が弱くなり、体染色体や性染色体同士で fusion  し易くなる性質に突然変異を来した動物群と言えそうですが、それが各々特殊な遺伝子変異 modification を遂げて現在の3種が成立したとのことでしょう。この様な独立性に関する或る種の脆弱性を抱えていることから、性染色体にまつわるバリエーションがこの先にも起こりそうに見えます。

 この論文の中でも触れられていますが、体染色体の一部がX,Y性染色体共に融合する例は哺乳類では稀であり、僅かに、オオモグラネズミ giant mole-rat  Fukomysmechowii、アフリカピグミーマウス African pygmy mouse  Mus minutoides、それと3種のウシ科 ニルガイ  Boselaphus tragocamelus、シタツンガTragelaphus spekei、及びレッサークドゥTragelaphus imberbis  のみが知られている、とされています。この内の giant mole-rat については次回のコラムにて触れる他の mole-rat とは近縁な仲間です。精査すれば、まだまだ変わった方式の、雄の性決定機構を持つ哺乳類が見付かりそうにも思います。ヤギに数多く見られる間性(雌雄の中間型)の問題と絡めて執筆出来ればと考えています。








 

ネズミの話F 日本の野生ネズミV




2020年4月10日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 本邦に棲息する野生のネズミの第三弾です。ネズミ科に属する ハツカネズミを紹介します。




ハツカネズミ  House mouse  Mus musculus


 ハツカネズミは野生動物として生存もしていますが、人間の生活環境の場で棲息する個体数の方が野生のものよりは多いのが実状です。船の移動に伴い本邦にも史前移入種として到来し、草地、畑のみならず家ネズミとして全ての島嶼に棲息しています。院長は数年前に文京区本郷3丁目の東大横の医学機材、理化学機器問屋街を歩いている時に灰色の毛色のハツカネズミを目撃しましたが、こんなところにも居るのかとちょっと驚きました。もっとも、大型のドブネズミが深夜、早朝に渋谷駅のJRガード下辺りをのそのそ歩いているのを目撃などする率に比べると、実物を目にする機会はそれほどでもありません。野生ネズミ field mouse として扱うべきかは微妙なところがあるのですが、人家を離れても棲息可能な点を踏まえ、この項で扱いますね。当然のことですが、元々は人類とは別個に棲息し、進化を遂げてきた動物です。アジア(おそらく北インド)原産ですが紀元前13000年には東地中海域に拡散しましたが、他のヨーロッパ地域に広がったのは紀元前1000年頃です。このタイムラグの理由ですが、ハツカネズミがヒトの一定規模以上の農業定住地を必要とするからと考えられています。これ以降、人間に伴い地球上に広がりました。植民に伴い離島にも拡散しました。例えば、ヒトが入植する以前にはニュージーランド島には哺乳類は2種類のコウモリ以外棲息していませんでしたが、ハツカネズミの侵入に拠り、鳥と食餌が競合し、爬虫類を殺したり、昆虫が影響を受けるなどしています。因みにニュージーランドにはキウイなどの他に飛べないオウムであるフクロウオウムも棲息するなど、地上性哺乳類の侵入していない土地固有の動物相を示し大変興味深いのですが後日別項で扱う予定です。

 サイズは頭胴長約75〜100mm、尾長約50〜100mm、体重約 40〜45g ほどで、毛色は野生状態で灰色、薄茶から黒までと変異に富みます。背中は赤茶色、腹部は白色〜クリーム色を呈します。飼育下の個体では全身が白色、シャンパン色から黒色へと亘ります。

 尻尾に毛は少なく、耳や手足と共に放熱機関としても機能します。動静脈吻合の存在で尻尾の皮膚温度を環境温度に合わせてコントロール可能であり、10℃も上昇させる事が出来ます。この動静脈吻合についてはホッキョクギツネのコラムでも触れましたが、確かマグロなどの魚類にも観察されている筈です。いずれも体熱制御装置として機能します。

 尻尾の長さは生息環境の影響を受け、寒冷な地域で成長すると短くなります。尻尾は登攀時走行時にバランサーとして利用されますし、両足と尻尾の基部を3点支持をして立ち上がることも出来ますが、これらは他の哺乳類でもしばしば観察され特筆すべき動作でもありません。他のハツカネズミに出会ったときには尻尾で優劣の情報を示します。ニホンザルでもボスザルは尻尾を挙げていますが何か似た様なシグナルを送るのでしょうか?




 通常の豆粒大の胸腺を胸に持つ他、頸部の気管の横に針頭大の第2の胸腺を持っています。染色体数は40個ですが、西ヨーロッバには染色体がRobertsonianfusion ロバートソン融合(2つの異なる染色体の短い方の部分同士が結合する現象)由来の融合を来たし、染色体数の少なくなった数多くの個体が存在します。

 常に垂直な壁面に接していると安心するとの接触走性 thigmotaxisを持つと考えられていますが、これはモグラが常にトンネルの壁面に触れていると安心するのに似ています。ヤドカリが殻に収まっていないと落ち着かないのも同様でしょう。手持ちぶさたなる言葉が有りますが、ヒトに於いて<ご先祖様が枝を握っていたり物に捕まっていた手が空いてしまうと落ち着かなくなる>ことを意味するのではと院長は考えています。まぁこれが理由でご婦人がハンドバックを握っていたり、聖徳太子が杓を握っていたりするのかもしれません。

 野生下では通常1年以下の寿命ですがこれは厳しい生存環境に生き、また高頻度で捕食される為です。飼育下では2,3年は生きます。何らの遺伝的操作、薬剤投与、食餌投与しなかった個体が4年3ヶ月生きた記録があります。

 縄張りを持ち、互いに縄張りを尊重し侵入しません。一匹の優勢な雄が数匹の雌と子供を従えて生活します。

 ハツカネズミは捕食者であるドブネズミやクマネズミを怖れますが、森の中などではこれらが共存する場合もあります。一般的には他の動物との競合には弱く、人里を離れては生存できません。衛生害虫などと同じく片利共生ですね。

 雌の発情周期は4〜6日ですが発情自体は1日未満です。数匹の雌を込みいった環境で飼育するとしばしば全く発情を示さなくなりますが、雄の尿に晒されると72時間後に発情に入ります。雄は雌が発するフェロモンを感じ取り、雌の匂いを嗅いだり後を付けながら30kHz〜110kHzの超音波を発して求愛しますが交尾中にはこれは続けられます。交尾後に雌にはプラグが出来ますが、これで丸1日程度次の交尾が妨げられます。妊娠期間は19〜21日で3〜14頭を出産しますが、6〜8頭が平均です。雌は年間に5〜10頭を出産しますので文字通りのネズミ算式に数が増えます。野生下のものは冬場は生殖しませんが人家の個体は周年繁殖します。仔ネズミは生後21日で離乳し、6〜8週齢で性成熟します。

 ハツカネズミと感染症、特にzoonosis 人畜共通感染症については、のちほど<ネズミと感染症>の項で扱います。また、実験動物としてのハツカネズミに関しては<ネズミと飼育>の項で扱う予定です。







 

ネズミの話E 日本の野生ネズミU




2020年4月5日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 本邦に棲息する野生のネズミの第二弾です。ネズミ科に属する カヤネズミ、を紹介します。



カヤネズミ  Eurasian harvest mouse  Micromys minutus


 カヤネズミは日本国内では最小、ヨーロッパでも最も小さなネズミです。アジアとヨーロッパに棲息します。麦畑、河川敷などの芦原、その他背の高い草の茂る平地などに見られます。人家には全く侵入しません。2色カラーの毛で覆われ先端に毛の無い尻尾は、巻き付けることで高度な把握力を有し、登攀時に役立ちます。後ろ足は幅が広くこれも登攀に役に立ちます。尻尾と後ろ足で草の葉や茎を掴み、空いた両手で種子や昆虫などの餌を保持して食べることが出来ます。ほぼ一生を草の上で過ごします。サイズは頭胴長約55〜75mm、尾長約50〜70mm、体重約 4〜11g ほど(ハツカネズミの半分程度)ですが、成体でも僅か4g程度の場合もある訳です。背中は赤茶色、腹部は白色〜クリーム色を呈します。学名Micromys minutus は、minutus 小さな、micromys 極小ネズミ属の意味ですので、命名は<小さな極小ネズミ>ですがカヤネズミそのものですね。

 東北地方や南西諸島での発見例はまだありませんが、それ以外では探せばそこそこ各地に棲息はしていそうに思います。JR総武線で江戸川を渡るときに河原の広大なススキヶ原が目に入りますがそこにも棲息しているかもしれません。近年は草地や芦が茂る湿地帯が農業や宅地などに利用されたり、護岸工事と称してコンクリートで固められたりもする様になり、日本では生息域が減少、分断化されていると考えて良かろうと思います。分断化された生息域(そのままだと遺伝的に煮詰まってしまいます)を互いにどうやって関係させるかが重要な課題となって来ています。

 地面から距離を置き、背の高い草の茎の中程の高さに、巧みに草を織り込んで繁殖の為の径7cm程度の球形の巣を作ります。産仔数は8頭です。授乳期間は15〜16日と短く、乳仔は生後数日〜10日ほどで物を掴んだり立ち上がったり垂直に登攀出来る様になりますが、草の中を水平移動して進むのは離乳後となります。

 カヤネズミ属 Micromys はほぼ確実にアジアで進化したと考えられ、オナガキノボリマウス(Vandeleuria 属)とフデオマウス(Chiropodomys 属)に近縁です。カヤネズミ属は化石記録では古くは後期鮮新世(3.600万年前〜588万年前)に出現し、カヤネズミはドイツの初期更新世( 258万年前〜77万3千年前)に化石記録があります。氷河期時代に棲息範囲の縮小を経験し、氷の無かったヨーロッパ地域に閉じ込められました。その後アジアにも再び棲息するに至りましたが、氷河が後退した為、或いは新石器時代に農業が開始されると共に偶発的に導入されたからとも考えられています。

 霊長類の運動性進化を専門とする院長は、樹上生活性 vs. 地上性の概念は、常に頭の中をぐるぐる回っているぐらいの基幹的な考察のネタなのですが、カヤネズミが草上生活性に特化し、ほぼ一生をそこで過ごすことが特に興味深く感じられます。尤も、ボディサイズが小さく絶対的な体重も低いことは、同じプロポーションの動物としては登攀、ぶら下がりなどの抗重力方向の動作をいとも容易くしますので、機能形態面での特殊化は殆ど期待は出来ない動物と考えます。まぁ、習性−脳に由来する運動制御性−が草上生活を指向して進化したと言うことになるでしょう。筋骨格系の改変への要求度は極く小さいものでしょう。

 明らかなことですが、一定サイズ且つ一定の枝振り形態を持つ植物の進化があって、それが提供する樹上 or 草上空間を利用する動物が進化し得た事になります。院長はぶら下がり移動(腕渡り、ブラキエーション)するサルの運動進化の解明を現在の研究のメインテーマの1つとしていますが、仮に地球上の樹木がシダ(ヘゴ、巨大なトクサなど)の様な形或いは針葉樹の枝振りであれば、それに腕渡りして進むべき枝振りがありません。霊長類が進化し得たのは被子植物の枝振りの樹木が進化した前提に立つことが良く判ります。







 

ネズミの話D 日本の野生ネズミT アカネズミ と ヒメネズミ




2020年4月1日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 本邦に棲息する野生のネズミはネズミ科とキヌゲネズミ科から構成されますが、ネズミ科に属する動物を最初にご紹介します。

 家ネズミのドブネズミでは大型個体で300gを超える時がありますが、それに比べると野生のネズミは皆小型です。



アカネズミ Large Japanese field mouse  Apodemus  speciosus


 アカネズミは日本固有種であり、北海道から九州までの日本全域に生息しています。体の色は口から尾の先端まで背中側が橙褐色、腹側が白のツートンカラーです。体重約20g〜60g、頭胴長約8cm〜14cm、尾長約7cm〜13cmです。日本各地の低地の草原から2,000mを超す山地の森林までいたるところに棲息していますが、どちらかと言えば開けた二次林(いわゆる里山)を好みます。これに対し、よく似ていますがサイズが小さいヒメネズミは、枝の茂った樹冠部を好みます。捕食を避けるべく夜行性で、特に秋から冬場に掛けては主に植物の種子や堅果などを餌とし、ドングリやクルミ食が13〜100%を占めます。木の実をせっせと集めて土に埋めてくれますので、食べ残した木の実から芽が出て、堅果の森が成長することになりますが、これがこのネズミの生息数の増大、生殖、個体密度などに大きな効果を生み出します。期せずして種子を撒布して植林し、それが自分たちの生存に好適な環境の増大に繋がる訳ですね。ネズミを単なる農作物への害獣と見るだけではなく、自然のサイクルの中での意義を考えることも大切だ、との一例です。元々が農業自体が自然を利用した人間側の一つの産業であり、自然破壊をももたらしますので、野生のネズミに対して実は強いことを主張するのが「不自然」と言えるかもしれません。時に昆虫を捕食することもあります。

 アカネズミを光量の強い環境下で飼育すると、巣の外に出て外を歩き回る時間、並びに食餌量が低下することが知られています。暗い時には巣外で餌を食べますが、明るいと巣の中に餌を運び込んで食べる様になります。これは明るい場所では捕食され易いのを避ける生得的な(=生まれついての)行動と考えられています。また光に対する行動反応性を異にするヒメネズミとは生態的地位(ニッチ)を重なら無くする効果があります。ボディサイズの違いがこの様な違いをもたらす理由と考えられています。上にヒメネズミが樹冠(木のてっぺん)を好むと書きましたが、これはサイズが小さいのでするするとラクに木登りが出来るからでもあります。

 ドングリや木の実には多量のタンニン(有毒物質)が含まれていますが、堅果を多食するアカネズミは、特異な生理学的、また行動学な遣り方でこの害を防止しています。タンニンに対して特殊なタンパク質を分泌し、また細菌の助けを得ることで高濃度のタンニンを持つナッツ食に順応しています。またタンニン及び関連有毒タンパク質の低濃度のドングリを率先して好んで食べる習性も観察されます。生理学的な対応は進化的な適応の結果得られたものであると考える以外にありませんが、堅果を巧みに食べたりタンニンの多い堅果を避けたりする能力は、遺伝的に生得的に備わっている行動では無く、学習の結果であり、すぐに効率の良い食べ方などを習得することが出来ます。この様な学習能力は、ネズミ類が異なる環境にすぐさま適応し繁栄する基礎を与えるものでしょう。ネズミは頭が良いから繁栄していると言う事ですね。

 院長は子供の頃、ドングリを食べると吃音になるよと年長の子供達や大人から聞かされてきました。生のドングリを剥くと手指が茶褐色に染まりますので相当量のタンニンが含まれている事が分かります。渋柿を食べたときと同じで口が収斂してしまい、確かに発話も困難になりそうです。縄文人はドングリを食べていた筈ですが、アク抜きをして利用していたのでしょうね。さすがに品種改良してタンニンの少ないドングリを育種するまでには至らなかったでしょう。ツキノワグマなどもドングリを食べますがタンニンをどの様に処理しているのかちょっと気になります。10年程前に東大の秩父演習林内をI先生にご案内戴いたことがあったのですが、途中結構な高さの木があり枝が折れていました。I先生によるとツキノワグマが木登りしてドングリの実を食べた痕だ、との事でしたが、ツキノワグマの体重を維持するには相当量の食べ物を摂らないと遣っていけないと思いますが、野生動物もなかなか大変そうです。



ヒメネズミ  Small Japanese field mouse  Apodemus  argenteus


 アカネズミと同じくアカネズミ属 Apodemusに属するネズミです。頭胴長65-100mm、尾長70-110mm、体重10〜20g とアカネズミの半分以下の体重です。ハツカネズミと大差ないサイズの小型のネズミです。背中側が栗色、腹側が白色の体毛で覆われます。同属のアカネズミに似ていて、特にアカネズミの子供とは区別が難しいのですが、尻尾の長さが相対的にやや長いことなどで区別出来ます。


 頭蓋骨形態で分別可能とされますが、サイズが小さく計測上の誤差が大きくなることに加え、同属の動物間での僅かな差異に依拠することになり、形態学を専門とする院長は正確性には疑問を覚ます。違いを見つけるために鵜の目鷹の目でどこが違うのか、2点間の距離が違っているなどを見つけることは、分類して異なる命名を与える為の手技に留まり、異なる形態を元にどうしてその様な違いが進化的に得られたのかを考える学問である形態学とは基本的に別個の考え方になります。第一義的に違いを見つける為の骨計測学ですが、この様な形態を取り巻くく分類学者の姿勢には、形態学をメインとする立場からは正直常に違和感を感じています。

 形態学、時に機能形態学では、@AとBと言う動物が存在し、運動特性が違っていることが判明した(観察)、AこれはCの筋骨格系に違いをもたらしている可能性がある(仮説)、BC部位の筋骨格系を機能形態学的に解析したところDなる考察が得られた(仮説の検定)、とのシナリオ展開ですが、@AとBとはCの形態が異なっている、AAとBとは運動特性に違いがある、B解析の結果、その特性の違いがCの形態の違いに関係することが考察された、でもOKです。要は、形態の持つ意義について考える事が形態「学」であり、違いを単に見つける為の計測ではありません。また、イヌ科の分類・系統のコラムでも触れて来ましたが、形態に基づく系統分類は大まかには正しいのですが、間違いも含まれます。それ単独では無く、遺伝子の比較・解析との組み合わせでより精確な系統関係が判明することを忘れるべきではありません。

 世間一般の方は形態学なる学問と分類学とを混同しているところもあるかと思いますが、前者は形態そのものの成立の意義を考究する学問であるのに対し、後者は形態を違いを見つける為の道具とします。厳しいことを言えば、分類学に顔を突っ込んで新種を見つけたなどと喜んでいる様な形態学者は真の形態学者とは言えず、脇に流れた亜流でしょうね。勿論、この考えは分類学の重要性を何ら否定するものではありませんが。


 さて、ヒメネズミの生息域はアカネズミと重なりますが、小型のヒメネズミがそのボディサイズゆえに木登りを容易とし、より樹冠部を好む傾向にあり、また光に対する行動特性が異なり、活動時間帯がズレることから、生態的地位ニッチが重ならず、競合を上手く避けていると考えて良いでしょう。いわゆる棲み分けが成立しています。

 人間で言えば、マンションの下の階に住む者 vs. 上の階に住む者、昼型人間 vs. 夜型人間のダブルの生活形態を取って居る様なもので、廊下ですれ違う率は小さくなりますね。共通祖先が同一の場でサイズを異にして別の種に種分化した可能性を考えると大変面白いです。これこそ棲み分け学説を煮詰める好適なモデルとなりそうです。興味をお持ちの方は今西進化論をまず紐解いてみて下さい。







 

ネズミの話C 形態U




2020年3月25日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ネズミのお話の第4回目、形態について引き続き扱います。前回はだいぶ砕けてしまいましたので今回は形態学らしく硬派な話を送りますね。まぁホネの話がメインですので確かに硬派ではあります・・・。



 ラット (正確にはドブネズミ  Rattus norvegicus) は実験動物として多用されていますが、その利用に供すべく解剖図譜も多数出版されています。数多くの家畜解剖学、人体解剖学の書物と同じく、骨学、内臓学、神経学、脈管学などの配列で構成されています(各種動物の解剖図譜に関しては後日纏めて扱いたいと思います)。その様な書籍にてラットの交連骨格(バラバラの骨ではなく生体の様に連結した状態)図を見ると分かりますが、頭蓋骨より後ろ(post cranial skeleton) は哺乳類の基本的な骨格要素をほぼ保っています。我々ヒトや大小類人猿には尻尾が殆ど退化していますがラットには立派な長い尻尾があります。イヌでは痕跡的に遺るだけの、またネコでは退化的な、鎖骨も完全な姿で存在しています。手足の指も5本ずつあります。例えば下腿の骨である脛骨(けいこつ、向こうずねの骨)に腓骨(ひこつ)が融合していることなど幾らかの特殊化は観察されますが、基本的な骨格構成要素並びに形態をそのまま遺していることから、哺乳類としてはあまり特殊化していない構造を維持している動物と言えるでしょう。因みにサル、特に旧世界のオナガザル類も哺乳類としての post cranial  skeleton を温存している動物群と言えるでしょう。

 これに対し、ラットの頭蓋骨 (とうがいこつ) はだいぶ特殊化を遂げています。文字通りの齧歯類の名の通り、上顎と下顎から2本ずつの切歯(せっし、前歯のこと)が伸び、鑿の様に先が平らに削り取られています。窮鼠猫を噛むと言いますが、院長も実験室の片隅に逃げ込んだマウスを捕まえようと隙間に手を差し込んだところ、指先を噛み付かれてスパッと皮膚が切れ結構出血した経験があります。極く幅の狭いカミソリで切られたように皮膚が抉れましたがそれぐらい歯の先端が鋭利に研がれています。余談ですがモグラにも咬まれたことがあり、指と指との間の水かき?部分に2箇所針穴のような傷が付きました。これはこれでギャッと思わず声を挙げるほどの鋭い痛みがあります。更にはアライグマにも咬まれ・・・。

 上顎の切歯2本の前面はオレンジ色を呈していますが、これは歯に鋭さを与える色素と考えられています。例外は有るものの齧歯類共通に見られる特徴です。上下合計4本の切歯は爪の様に生涯伸び続けますので、せっせせっせと何かを囓り丁度良い長さに保つ必要があります。切歯の1本が事故等で欠けてしまうと対する切歯がどんどん伸びてしまい、口腔内に丸くカーブして伸びた歯で口が閉じられなくなると同時に採食が不可能となり餓死するに至ります。野生下では切歯が欠ける事は死を意味する訳ですね。ペットのハムスターなどで切歯が欠けた場合は、上下が上手く対する様に生え揃うまで、欠けていない方の切歯を適宜削り取る必要があるのですが、小型ゆえ鎮静剤或いは麻酔量の算定が難しく、或いはそれを繰り返す必要性から獣医師は敬遠する仕事でしょう。齧歯類では鑿の様な歯が武器であり道具ですが、自分の命を奪うこともある訳です。

 歯式 dental formula は 1 0 0 3/ 1 0 0 3 = 8 で、上下左右合わせて計16本です。片側で上顎、下顎共に切歯が1本、犬歯と前臼歯がゼロ、後臼歯が3本です。この式の通り犬歯が存在しません。切歯と臼歯との間の、順番として犬歯が生えているべき場所は大きな空隙となっています。武器ともなる強大な切歯がありますのでこの場所に犬歯が生えていても意味を成さないと言うか寧ろ邪魔になりそうです。切歯のサイズに比べると臼歯はだいぶ小型になります。



 前回、他人のそら似でネズミに似ている有袋類の Rat Kangaroo を紹介しましたが、下顎の切歯はネズミのそれに似て強大で、また犬歯はありませんが、上顎では切歯が片側に3本あり、また小さいながらも犬歯があります。上下の前臼歯が大型化して独特な形状であるのが大変興味深いところですが、下顎の方だけネズミにちょっと類似すると言っても良いと思います。上下両顎に犬歯がなく空隙となっているワラビーなどの方が歯の構成上は寧ろネズミに近いと言えるかもしれません。尤も、下顎からの強大な切歯はネズミと違って前方に突出しており、それの上面に上顎の3本の切歯が相対しています。顎の動かし方がだいぶ異なる様に見えますが、biomechanical な観点から筋群の配置を見たら面白ろそうです。ネズミと違って切歯が伸び続けるとの構造には見えません。

 ところで、ウサギもモノをガリガリ削っていて前歯が上下2本ずつに見えるが齧歯類の仲間ではないのか、耳が長いだけではないのか、とお考えの方もおられると思いますが、実は違います。歯式が違っているのですが、ウサギに付いては後日別コラムシリーズで執筆予定です。



 院長は形態学を専門としていますが、只、提示された生き物を観察し文章で記述する(記載と言う)だけでは論点が霞んでしまい掴みどころが無い記述になってしまいます。それを異なる生き物と対比することで、初めて形態の特徴や意義を考察する手掛かりが浮上してきます。まぁ、比べてナンボのもんぢゃい、ですが、ここに比較解剖学 comparative anatonyが始まるとの按配です。ネズミの頭蓋骨の特殊性も似た様な他種と比較解析することで意義が明瞭に理解出来る訳ですね。この比較の概念は全ての学問共通に生かせる基本的な考え方です。この、comparative の基本的学問姿勢、概念を持つ事は、幅広く動物を扱い考える獣医学教育を受けた者の、圧倒的な強みと考えますが、院長も指導教官であったM先生にこれをたびたび強調されました。

 話がズレますが、人間が何か問題を抱えていて悩んでいる時、一人で考えているといつの間にか堂々巡りに陥り、精神的にも疲弊してしまうことになりがちですが、他人詰まり異なる人間の考えを聞いて比較することで、自分の考えの問題点が明確に浮上し、問題解決に繋がる事が多いのではと思います。モノの考え方を意識的に他人と比較することが大切な訳ですが、こっちは比較悩み解決法とでも言えそうです。真相を解明せんと煮詰まって仕舞った名探偵ポワロが、ふと耳にした通行人の会話の言葉を元に、一気に灰色の脳細胞が動き出し真犯人を探り当てるなども似たところがあるでしょう。







 

ネズミの話B 形態T




2020年3月20日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ネズミのお話の第3回目、形態について扱います。初回ですのでざっくばらんに進めましょうか。

 前回、ネズミもどきの項にて触れましたが、日本、そしておそらく中華圏に於いても、小さくてちょこまか動く哺乳動物をネズミと呼称する様ですね。地ネズミ、川ネズミ、麝香ネズミ、尖りネズミ、針ネズミは食虫目の動物ですが、この内、ずんぐりして丸味を帯びた針ネズミは動きは確かにちょこまかしていますが、これ以外はほっそりした体型で尻尾も長いです。真のネズミの方も似た様な体型ですが、視覚の方は食虫目に比べるとだいぶ発達しています。

 身体のサイズが小さくて知能が高ければ、自然界の隠れ家を見つけることもたやすく、二乗三乗の法則から木登りなどの登攀行動も楽になりますし、地面に穴を掘ったり、或いは水中に穴を掘る詰まりは泳ぐことも出来ます。高いところから転落しても重力加速の付いた体重を四肢の筋肉でこともなげに支えることも出来ます。跳躍も簡単です。サツマイモの様な体型であれば各種センサーが集約している頭部先端をゾンデ(探索子)として利用し、状況を窺ったり隙間に潜ることも出来るでしょう。長い尻尾は登攀時には第5番目の体肢として把握に利用出来ますし、サーカスの綱渡り者がバーを手に渡るようにバランサーとしても利用出来ます。まぁ、忍者、はたまた鼠小僧次郎吉の様に何処にでも神出鬼没可能です。




 米国のトリビア情報のページに以下、ネズミの語源について分かり易い記事が掲載されていました:

https://www.todayifoundout.com/index.php/2011/03/where-the-word-mouse-comes-from/


“Mouse” comes from the Sanskrit word for mouse, “musuka”, which in turn derives from the Sanskrit “mus” meaning “thief” or “robber”,presumably referring to the fact that mice like to steal food from humans, particularly grains and fruits. The Ancient Romans then used the  word“mus” to refer to rodents and would distinguish between  mice and rats only by “big”  and “little” (“Mus Maximus”, big mouse, and “MusMinimus”, little mouse).


 「Mouse はサンスクリット語の小型のネズミに対応する語 musuka に由来しますが、それはサンスクリット語の盗人、泥棒を言う mus から転じたものです。おそらく小型のネズミが人間から食料を、特に穀物と果実を好んで盗んだ事実を語ってのものでしょう。やがては古代ローマ人は齧歯類の動物を指す言葉として musを使いましたが、身体の大小で単に区別していただけでした(ラテン語 Mus Maximus は大きいネズミ、Mus Minimus は小さいネズミの意)。」

(院長和訳)


 ハツカネズミ House mouse の学名はMus musculus ムス ムスクルス  (動物の学名は斜体、イタリックで表記する決まりがあります) ですが、musculus は小さなネズミの意味です。Mus ネズミ属の中の小さなネズミの意味となります。



 ネズミの形態のコラムなのになぜ名前の由来の話を続けるのかと疑問に思われた方も居ると思いますが、そろそろ答えを出しましょうか。

 英語で筋肉のことを muscle マッスルと言いますが、この言葉の語源は

https://www.etymonline.com/word/muscle

muscle (n.)

"contractible animal tissue consisting of bundles of fibers," late 14c., "a muscle of the  body," from Latin musculus "a muscle," literally "a littlemouse," diminutive of mus " mouse" (see mouse (n.)).

So called because the shape and movement of some muscles (notably biceps) were  thought to resemble mice. The analogy was made in Greek,too, where mys is both " mouse" and "muscle," and its combining form gives the medical prefix myo-. Compare  also Old Church Slavonic mysi "mouse," mysica "arm;" German Maus "mouse; muscle,"  Arabic 'adalah "muscle," 'adal "field mouse;" Cornish logodenfer "calf of the leg,"  literally "mouse of the leg." In Middle English, lacerte, from the Latin word for "lizard,"  also was used as a word for a muscle.


muscle

 繊維の束から成る伸縮性の動物の組織(14世紀後期)、つまり身体の筋肉。ラテン語の musculus 小さなネズミの意、縮小型はmus 即ちmouse。

 幾つかの筋(二頭筋がよく知られる)のカタチと動きが mouse に類似しているからその様に呼ばれたと考えられている。ギリシア語でも似た様な事が起き、mysとはmouse と筋の両者を表し、その結合型は医学用語の接頭語 myo となった。古代教会スラヴ語 mysi: mouse, mysica: arm 腕、ドイツ語 Maus: mouse,muscle、アラビア語 adalar: muscle, adal: mouse、コーンウォール語(英ブリテン島の西南端で話されるケルト語) logodenfer: calf of the leg 足の子牛 = 足の mouse 足の筋肉、中世英語 lacerte はラテン語のトカゲに相当する語だが筋肉の意でも使用された。

(院長和訳)


 筋肉はカタチがネズミのカタチに似ていることから同じ名前となった事が分かります。昔の英語では筋肉をネズミだけではなくトカゲにもなぞらえていたようですね。確かに上腕二頭筋(ラテン学名 Musculus  biceps  brachii ムスクルス ビケプス ブラキイ 2つの頭を持つ筋) など細長くて両端が腱を持ちすぼんだ形態ですので遠目には紡錘形のネズミの形にちょっとは似ています。

 盗人→ネズミ→力こぶ→筋肉、と相成ったとのお話でした。







 

ネズミの話A 分類




2020年3月15日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

ネズミのお話の第2回目、分類について簡略に扱います。



 ネズミの分類



  ネズミの分類は近年揺れ動いていましたが、ネズミとは齧歯目の中のいわゆるネズミ型の一群ネズミ亜目(亜とは<すぐ下>との意味)に含まれる動物であり、ネズミ上科とトビネズミ上科から構成されます。ネズミ上科ではその軍門に1800〜2000種程度を擁し、トビネズミ上科は数は少なく30種程度です。

 齧歯目とはその名の如くで、上下2本ずつ計4本の前歯(門歯 or 切歯)が終生伸び続け、常に何かを囓って歯をすり減らす必要があります。犬歯(糸切り歯)が有りません。

 この内のトビネズミ上科はトビネズミ科1科のみから成りますが、後ろ足が発達してウサギの様に跳躍する( saltatorial locomotion と言います)動物で、カラダの前半分はネズミに似ていますが、後ろ半分はだいぶ趣が異なります。夜間に砂漠地でぴょんぴょん飛び跳ねる動物の画像を見た方も居られると思います。他方、ネズミ上科の動物は真のネズミの一派と言って良いと思いますが、これにはネズミ科、キヌゲネズミ科、アシナガマウス科、メクラネズミ科、ヨルマウス科の5科が含まれます。


ネズミ亜目 −ネズミ上科   −ネズミ科      アカネズミ、ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミ

                   −キヌゲネズミ科   ハムスター、ハタネズミ、レミング、ヤチネズミ

                   −アシナガマウス科 アフリカオニネズミ

                   −メクラネズミ科   タケネズミ

                   −ヨルマウス科    Mouse-like  hamster


        −トビネズミ上科 −トビネズミ科    トビネズミ



 上記タケネズミですが、新型コロナウイルス感染症では感染源の1つとして当初は疑われていました。竹林に棲息する非常に大型のネズミですが、武漢では普通に食用とされ、養殖物が供給される態勢が出来ています。尤も何処まで微生物学的制御が為されているかですが、飼育下にあっても野生動物や感染を媒介する昆虫等と接触し得る飼育であれば安心は出来ません。

 日本在来の野ネズミの内、ネズミ科にはアカネズミ、ヒメネズミ、カヤネズミ、ハツカネズミ、それとトゲネズミが、キヌゲネズミ科にはハタネズミ、エゾヤチネズミ、スミスネズミが属します。科名の和名については Wikipedia に従いましたが、再検討の上改めるべきでしょうね。


 トビネズミの仲間のジャルボアは一頃ペット店にてよく売られていたのですが、近頃は殆ど見ない様に思います。極小サイズですので食餌にお金が掛からずに済み、ケージも小型で場所も取らないのは良いのですが、ストレス管理、長期的な視点での栄養管理、或いは繁殖が容易ではないなどの問題があるのかも知れません。サルの天然痘(サル痘)を媒介し、人間にも感染し激烈な症状をもたらしますので、院長の様に子供の時に種痘を受けていない者は重篤化するでしょう。因みに種痘とは、人間には極く軽い症状が出る程度のウシの天然痘をヒトに感染させ、ヒトの天然痘に対する免疫(免疫は種共通)を獲得させる方法です。院長の肩に種痘の痕の盛り上がりが遺っていますが、親の世代では二の腕に6箇所程度、丸い凹んだ痕が遺っていました。刃物で切りつけ膿を擦り込まれたとのことです。ジェンナーの業績で非常に有名ですね。

 以降、各ネズミについて解説して行きましょう。







 

ネズミの話@ ネズミもどき




2020年3月10日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 獣医療面での話が過去4ヶ月程度続きましたので、また久しぶりに獣医療とは離れた哺乳動物の話題を採り上げようと思います。今年の干支はねずみ年ですので何か適当なネズミの話をしたいところですが、ネズミの概論(分類・形態等)、本邦棲息の野生のネズミ、人家に棲息する家ネズミ(感染症と駆除)、小さなネズミと大きなネズミ、今を時めく?ハダカデバネズミ、その他のネズミのトピックスでお送りしましょうか。



 ネズミと言うと特に女性は身震いする方も多いのではと思いますが、院長にしてみればこの地球上で連綿と命を繋いできた生き物同士、しかも哺乳動物ですから、我々ヒトからも遠くない仲間である、との親近感がまず湧いてきます。食虫目のトガリネズミは我々とはちょっと距離があると言いますか、意思の疎通が難しいような感触があるのですが、ネズミとなると、例えばハムスター然りですが、一定の知能の存在を明確に感じ得ます。実は院長はトガリネズミと同じ食虫目のモグラを3年程飼育した経験が有りますが、なかなかの知恵者と感じました。トガリネズミの方も飼育を工夫すれば「理解」が進む可能性はあります。

 高尾山の山道でトガリネズミの仲間のジネズミの死体が転がっているのを良く目にするのですが、一般の方は即座にネズミの死体だと考えてしまうでしょう。小さいサイズで尻尾が長く、灰色っぽいくすんだ色調の毛皮で覆われているからです。死体を持ち上げると自然界の片付け屋のシデムシ等の昆虫が巣くっていてびっくりして思わず手を放す事になるでしょうね。和名尖りネズミ、地ネズミの名の通り、ネズミ型である事は確かです。

 英語ではトガリネズミ 尖り鼠、ジネズミ 地鼠の仲間を shrew シュルーと呼び、真のネズミに関しては小さいネズミは mouse (複数形はmice)、大きいネズミを rat と呼ぶのですが、日本語では全てネズミ扱いです。尤も、トガリネズミ 、ジネズミ のことを shrewmouse とも呼称しますので英語圏でもネズミ扱いされてはいます。因みに同じく食虫目に属するハリネズミ 針鼠は英語名は hedgehog ヘッジホ−グ(hedge 垣根、hog ブタ)ですが、日本でモルモット、テンジクネズミ(=天竺インドのネズミ)と呼ぶ齧歯目の動物を英語では guinea pig ギニアのブタと呼称します。ハネジネズミ 跳ね地鼠 elephant shrew なる<わけわからん>動物までいます。まぁ、日本はサイズが小さくてちょこちょこ動く哺乳類を広くネズミとして扱う文化圏にある様に見受けられます。これは背骨の無い小さな生き物を日本語でムシと呼ぶのにも似ています。但し、モグラについてはモグリネズミ 潜り鼠とは呼びません。

 これら「ネズミもどき」については後日機会があればおのおの別個に詳細に扱いたいところですが、本コラムシリーズでは真のネズミについて扱います。



 以前、院長がモグラの骨格の進化を調べていた折りに、掘削能力がモグラほどでは無く、手のひらの相対サイズが小さいヒミズを捕獲して調べようと思い立ちました。ヒミズ自体は普段人目に触れる機会は殆どありませんが実は河原の土手や林地の周辺部など含めてそこそこ棲息しています。一生出会うことの無い方々がほぼ100%に近い<身近な哺乳動物>との塩梅です。因みにヒミズ(日見ず、日見ずモグラ)とはモグラの出来損ないの様な生き物なのですが、他の食虫目の動物とモグラの間を繋ぐ中間的な動物かもしれないと疑問を持ち、形態を観察したところ、掘削のシステムは既にモグラと同じ機構を完全に獲得してはいるが、掘削能力のパワーが劣るだけと判明しました。まぁ、完全にモグラ側の動物です。パワーの違いについては、バイオメカニカル面での具体的な数量的解析にまでは至っていませんが、どなたか若い方があとを継いで呉れればと思っています。ヒミズ並びにモグラについては後日別コラムに仕立てる予定です。

 さて、シャーマントラップと言うアルミ製の折りたたみ式の罠にピーナツバターを入れ、許可を得た林地で20個以上の罠を仕掛けたのですが、暫くは一頭も捕獲出来ませんでした。因みに罠を仕掛けた林のその周辺はピーナツバターの濃厚な匂いが立ちこめてちょっと異様な雰囲気となりましたが、ピーナツバターを入れたのはヒミズが好物らしいと聞きつけてのトライアルです。数回目の試行時に、また今回も駄目かとあきらめ顔で1つの罠を確認すると、ヒミズでは無く小さな可愛らしい顔つきのネズミが掛かっていました。耳が小さめで尻尾が他のネズミに比べると短めです。シャーマントラップは動物が中に入るとバネ仕掛けでパタンと入り口が閉まる構造で、生体のまま無傷で捕獲が可能です。可愛い顔をしているからと言って野生個体を含めネズミはどんな感染症を持っているかも不明であり絶対に咬まれるわけには行きません。そこで咬傷防止用の金属メッシュ手袋を装着の上、プラ製の大型瓶(梅酒を漬ける類いの瓶)にさっと移動させて撮影記録した次第です。

 院長は若い頃より大きめのサイズの動物に関心が強く、ネズミに関してはこの時点まで正直動物学的な興味も知識も欠いている有様でした。家に戻り調査を進めるとこのネズミがハタネズミなる種であることが判りました。

 上で触れたハタネズミですが、これはネズミ科ではなくキヌゲネズミ科に属しますので、只のネズミではなく、ハムスターと同じ科に属します。言うなれば日本に棲息する野生のハムスターと言えなくもありません。本邦に棲息するエゾヤチネズミ、スミスネズミ含め、性質が大人しければの話ですが、感染症に罹患していない綺麗な状態の系統を作出すればペット化出来るかもしれません。尤も、農業害獣を飼育するとはケシカランと叱られるかもしれませんが。

 ネズミと言うと家ネズミのマイナスのイメージが圧倒的に強いと思いますが、実は日本の野山や畑などに棲息する野生のネズミの方も家ネズミに負けじと勢力を保っています。

 前置きが長くなり(長すぎ?)ましたが、次回は真のネズミの仲間の分類の話に入ります。







 

イヌと筋ジストロフィーG その他の治療法




2020年3月5日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第8回目です。今回でこのテーマは最後となります。



その他の治療法


薬剤

 ここでは治験薬段階の薬剤ではなく、現在一般的に利用される薬剤について述べます。

 ステロイドは一般的な理解としては炎症を抑制します。例えば感染や怪我などで組織がカッカと「燃えて」過剰反応するのを鎮火しクールにさせ、腫れで停滞していた物流の循環を改善して組織の修復を図るのに非常に有効です。白血球からの過剰な攻撃を抑えて組織を守るべく、自己免疫性疾患にも利用されます。DMDに対するステロイド剤の直接の作用機序は院長は知識を持ち合わせてはいませんが、ジストロフィン欠如に起因する、筋破壊、再生時に発生する炎症反応を低減し、全体として、筋破壊と再生の舞台を激烈にではなくマイルドにする効果があるのではと想像しています。実際、Youtube での患者さんの進行事例を見るとその様な効果がありそうに見えます。但し、児童にステロイド剤を投与すると食欲が増大し肥満化する副作用が出がちです。体重が増大すると逆に歩行に響きますので、慎重なさじ加減が必要とされるでしょう。

 話は外れますが、獣医療の場では副腎皮質ホルモン製剤は、皮膚疾患やアレルギー疾患の治療に重宝されます。劇的な改善を見る点では良いのですが、耐性がすぐに出、同容量では効果が出なくなります。そうなると副作用の問題も出る上に、止めるにしても徐々に投与量を減らして減薬を進めないと一種の離断症状が出るとの厄介な面も存在します。この様な特性から、必要最低限のギリギリの容量を日数を限定して投与するのが最善です。院長も自分の手の傷が化膿した場合などに市販の副腎皮質ホルモン軟膏を利用しますが、ごく微量を傷の周辺域に塗り込み、塗布時に手指に付いた軟膏は徹底的に拭き取りますし、3日以上は連続利用しないと決めています。知識の無い素人が副腎皮質ホルモン軟膏の類いを頻用するのは厳に慎むべきですし、例えばニキビの治療に塗布し一度は軽快を見ても、次第に容量が増大すると共にニキビ自体が著しく悪化するおそれがあります。副腎皮質ホルモンの増量は、体内で副腎皮質ホルモンを作る副腎そのものを萎縮させますが、ストレス耐性の弱い身体となってしまいます。まぁ、ロクな事が起きませんので、やむを得ないここぞと言う場合に限り必要最小量を使用すべきですね。皮膚疾患やアレルギー治療にダラダラとステロイド剤を投与し続ける定見無き獣医師ではなく (薬の性質をわきまえて利用する獣医師は勿論除く)、それら疾病の大本を治療する視点を持つ獣医師に診て貰うことが大切です。


 他には、心不全に対しては、一般的な循環器内科療法としての、アンジオテンシン変換酵素阻害剤(ACE阻害剤)、βブロッカー、利尿薬を投与します。これは筋ジストロフィーそのものに対する治療薬ではありません。



理学療法


 一般の方の感覚では、筋が細るなら筋トレすれば良いだろうとなりますが、筋トレとは実は筋に一定以上の負荷を掛け、その刺激で筋線維を太らせる策となります。只でさえ、筋線維の異常な破壊と再生が起きているところにその様なレベルの負荷を掛けるのはマズいですね。一方で筋は利用しないと廃用萎縮しますので、正常な筋を維持すべくほどほどに運動すると良いでしょう。また運動することで関節が拘縮することも避けられます。イヌの場合でしたら、変形性股関節症のリハビリの項でも紹介しましたが、浮力スーツを纏わせ温水プールで泳がせる、水中歩行させるのも大変有益だろうと思います。

 世の中は筋トレブームとなっている模様で、例えばアマゾン通販にて<筋トレ>で検索すると関連書籍がごまんとリストアップされます。しかしながら、筋変性疾患の患者さんに対する科学的な筋肉維持の為の知識提供は皆無ですね。絶対的な被検者数が確保出来ず、統計学的なデータが得られない面もありますが、将来的に、様子見しながらの「だましだまし」の作戦ではなく、筋ジストロフィーの患者さんが筋トレする為の明確な科学的規準が得られることを願っています。

 具体的な採るべき理学療法については、股関節形成不全のコラムにて紹介した方法が大方そのまま適用できますのでそちらをご覧下さい。



 ヒトの場合もそうですが、おそらくはその多くが遺伝子異常に起因するであろう神経筋変性疾患に対する根本的な治療法の多くは確立されておらず、対象療法的にケアを進めていくに留まる疾患が多いでしょう。しかし繰り返しますが、医学は最近、富に日進月歩の速度を高めていますので、積極的なケアに当たりながら QOLを維持していくことが大切だと院長は考えます。

 次回からはまた野生動物の話に戻ります。








  イヌと筋ジストロフィーF 分子レベルでの治療W




2020年3月1日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第7回目です。


 前回に引き続き、


@ viral vector mediated delivery of a recombinant dystrophin gene

A antisense oligonucleotide mediated exon-skipping to restore the open reading frame in the dystrophin mRNA

B read-through of premature stop mutations

C genome modification using CRISPR-Cas9

D cell based transfer of a functional dystrophin gene.


今回はこの内の、最後のDを扱います。




D cell based transfer of a functional dystrophin gene.

細胞レベルでのジストロフィン機能遺伝子の移植


 股関節形成不全のコラムにて、軟骨細胞の元になる細胞(体性幹細胞)を関節腔に注入して損傷を受けた軟骨を正常に戻す手法が、ヒトの関節リュウマチの治療に革新をもたらしたと述べました。しかしDMDの患者さんの細胞は遺伝子自体に異常を抱えていますので、それの親玉細胞を注入したところで異常な心筋細胞が増殖してしまい意義がありません。この問題に対しては、1つには分裂の大本になる細胞である iPS 細胞を作出して筋に導入しようとの作戦になります。正常者の他人からの、或いは本人の細胞に遺伝子編集を加え、ジストロフィンの正常遺伝子を持つ iPS 細胞を得(これ自体が大変と思います)、それをまず正常な筋細胞に分化させます。 iPS 細胞については院長コラム2019年12月10日 『イヌの股関節形成不全E治療V 幹細胞療法とサプリメント』をご参照下さい。

 iPS 細胞の欠点として上記Cの CRISPR-Cas9 法と同様に癌化を起こす可能性があります。増殖させたiPS 細胞から筋のシートを作出し、それを心筋症の患者さんの心臓に貼り付けて治療するとの大阪大の研究計画の報道をつい最近耳にしましたが、開胸し、更には心膜(心臓の表面を覆う薄い膜)を切開してそこからシートを貼り付けるとの結構な手技になるでしょう。上手く細胞が根付いてくれると良いですね。また、本年2020年2月5日付けの産経新聞 web 版に拠ると、慶応大学でも iPS 細胞を利用して心筋塊を作製し、それを特発性拡張型心筋症の患者さんの心筋内に注射器を利用して複数箇所注入し、心臓を再生するとの実験計画が学内で了承されたとのことです。動物実験で移植後に癌化しないことを確認済みだとのことです。まぁ、心筋シートを心臓表面に貼り付ける阪大の方法 vs. 心筋細胞塊を心臓の筋肉に注入する慶大の方法、ですが果たしてどちらが効果的なのか、院長も経緯を見守りたいと考えています。

 更に別の方法ですが、他人の(iPS では無い)幹細胞を心筋に噴霧する方法での実験が開始されたとの報道も聞いています。内視鏡を用い、心膜を軽く引き剥がし、鈍的に剥離して作った心膜と心筋との隙間に幹細胞を噴霧するのかと想像しますが、もしその手法が取り得るならば患者さんに対する外科的侵襲が少なく、只でさえ体力の低下しているDMDの患者さんには都合が良いでしょう。但し、噴霧で細胞が田植えの苗の様に根付くのかちょっと心持ち無い気がしないではありません。こちらは iPS 細胞作出までには至らないその<下流>域での細胞療法ですね。

 まぁ、以上3つの遣り方は事実上の細胞レベルでの筋移植になりますが、他人の細胞を使う場合は免疫抑制剤との組み合わせになるのかも知れません。仮にこれらの方法が成功すれば、DMDの患者さんの骨格筋、心筋に対し逐次細胞の導入を行い、分裂、定着を図り、少なくとも一部を正常な筋に入れ替えることが出来ます。心不全を来した心臓に対し実際の心臓移植を行うのではなく、<じわじわと進む>移植(部分移植、浸透性移植?)で済ませられるのであれば身体への負担もだいぶ軽く済みますね。但し、これらの方法は理論としては優れていますが、実際の臨床の場に応用するにあたっては幾らか場当たり的なアプローチとなっている様に見え、まだ治療法としては確立された段階には至っていません。まだ実験段階と言うところです。切ったり貼ったりが大好きな院長としてはこの様な治療法には強い興味を抱いては居ますが、特に iPS 関連の技法について、発癌性のリスクをゼロとし得ていない等の欠点を含め、この先が眩いばかりに明るいと断言するにはまだ躊躇するところが正直あります。




 以上、分子、細胞レベルでの治療法について一通り触れて来ました。お気づきかと思いますが、全て臨床的に確立された治療法とはほど遠く、治験(要するに人体実験)で安全性を確認してから実際の治療の場に使ってみよう、との初期段階に留まっています。頭で考えた理論通りには行かず、予測されない問題が出る危険性を払拭出来ていません。治験に於いても、場当たり的なアプローチと感じるものもあります。例えば、iPS 細胞のシートを患部に被せたり、注入する、噴霧する、などですが、ここら辺は遺伝子工学的操作とは一気に離れてしまい、臨床現場での大工仕事の切ったり貼ったりの手技になります。或る意味「ぶっ掛け試験」的な様相が見てとれます。遺伝子操作面とシート貼り付けや注射器で注入するなどの面での研究手技的ギャップが烈しいと感じますが、もっと「自然」な導入は出来ないものかと思います。また、iPS 技術に関しては発癌性を完全にクリヤー出来てはおらず、疾病は改善を示したが数年後に発癌して死亡した、となる危険性から抜け出ていません。iPS 細胞利用法は本当に治療法の理論としては正しいと言い切れるのかどうか、そこまでには達していないと院長は考えています。但し、幹細胞から生体内の各細胞に分化する過程で、どの遺伝子が作動しそしてその異常がどの様な疾病を発現させるのか、を追及する、言わば試験管内の調査研究には大変役に立つ技法となります。

 進化の長い歴史の過程では、異常を抱えて機能不全に繋がる遺伝子は環境圧の中で自ずと淘汰されて行きます。長い視野で見れば「上手く行って」いますし、その様にして生き物は生息環境に適した完成型に近づくべく進化を果たしてきました。まぁ、より良い設計図としてのゲノム(DNAの総体)の生物種にならんとの進化です。野生動物を見ても然りですが医者はいません

 この視点から鑑みるに、医療行為とは、個の存在を極めて重要視する価値観の中に存在する行為であることが改めて理解出来ます。そして遺伝子治療とはその最奥の核心に迫るものですが、技術の成熟と共に十分な倫理面での議論が必要とされるものであることを最後に強調しておきたいと思います。







 

イヌと筋ジストロフィーE 分子レベルでの治療V




2020年2月25日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第6回目です。


 前回に引き続き、


@ viral vector mediated delivery of a recombinant dystrophin gene

A antisense oligonucleotide mediated exon-skipping to restore the open reading frame in  the dystrophin mRNA

B read-through of premature stop mutations

C genome modification using CRISPR-Cas9

D cell based transfer of a functional dystrophin gene.


今回はこの内の、B、Cを扱います。




B read-through of premature stop mutations

これは前回ご紹介した上記 Aとちょっと似た様な手法となりますが、「ジストロフィン遺伝子の途中に、遺伝子の読み進めを停止させる様な異常部位が存在する場合、それを飛び越えて読み進ませる方法」です。詳細は例えば以下の記事を参照して下さい。 DMD患者さんの10-15% がこの様な読み込みを停止させる無意味な部位(ストップコドン)を持って居るとされます。

https://www.actionduchenne.org/what-is-duchenne/duchenne-explained/glossary-of-research-terms/stop-codon-readthrough/

Stop Codon Readthrough


 話はちょっとズレますが、本年2020年2月14日付けのNature Genetics 電子版に、大阪大学の中森氏らが、トリプレットリピート(遺伝子の例えばCAGと言った塩基配列の3つ組が異常に繰り返して反復配列する)を短縮する化学物質を発見したと報告しています。

https://www.nature.com/articles/s41588-019-0575-8#Sec38

A slipped-CAG DNA-binding small molecule induces trinucleotide-repeat contractions in  vivo

Masayuki Nakamori, et al. Nature Genetics  Published: 14 February 2020

(抄録のみ無料で読めます)


 DMDとは全く異なる疾患の筋強直性ジストロフィー(常染色体優性遺伝の疾患、ジストロフィン合成自体に問題は有りません)では遺伝子の非翻訳部位(何も合成しない暗号部位)にトリプレットの過伸張が存在しこれが原因で骨格筋を含め全身の疾患が発生します。この無意味な遺伝子の反復を薬剤により短縮させ正常に戻すことが出来れば、中森氏が主張する様にハンチントン舞踏病のみならず筋強直性ジストロフィー含め他のトリプレットリピート病(例えば脊髄小脳変性症の一部の型など)の患者さんを治療することが可能となるでしょう。遺伝子そのものをダイレクトに編集する方法となりますが、正常な遺伝子部分に対して害作用が無いかなどを確認の上、製剤化出来ると良いですね。




C genome modification using CRISPR-Cas9

 CRISPR-Cas9 (クリスパーキャス9)を用いた遺伝子改変


 ゲノム(遺伝子)編集技術「CRISPR」は、遺伝配列を特定し、削除、置換できる技術ですが 2012年に発表されました。CRISPR-Cas9 は短いRNA鎖と、効率的なDNA切断酵素からなるリボ核タンパク質複合体となります。もともとは細菌がその敵であるウイルスのDNAを探し出し、その配列を切り刻んで破壊する機構を応用した技術ですが、これを利用してDNAの特定の部位を検知し、切り出して除去、更に置換することが出来ます。ヒトの点突然変異由来の遺伝性疾患は32000種あるとされますが、この間違った1つの塩基を正しく置換するだけで半数が治療可能との見込みも為されています。但し、ブレーキ機構がありませんので核内に長く留まると別の場所まで切断してDNAを傷つける虞もあります。ヘタをすると細胞死や癌化に繋がりますね。Cas9酵素を変異させて切断能力を抑制する、DNAではなく対象をmRNAにするなど模索が続けられていますが、現状では制御性に関してまだ問題が残っています。前回のコラムで触れた「遺伝子編集の結果デュシェンヌ型筋ジストロフィーのモデル犬でジストロフィン発現が回復した」はこの手法に基づくものです。基本的に遺伝子そのものを修復(編集)しようとの作戦の1つです。


 本年2020年2月7日付けのサイエンス電子版に、がん患者自身の免疫細胞を強化する療法「CAR―T細胞療法」にゲノム編集技術ゲノム編集技術「CRISPR」を応用し、改変した免疫細胞が患者の体内で機能することを臨床試験で確認したと、米ペンシルベニア大の研究チームが発表しました。

https://science.sciencemag.org/content/367/6478/616

CRISPR takes on cancer

Jennifer Couzin-Frankel, Science  07 Feb 2020: Vol. 367, Issue 6478, pp. 616

DOI: 10.1126/science.367.6478.616

(抄録のみ無料で読めます)


「CAR―T細胞療法」とは、数が少なく攻撃力も弱いT細胞に「キメラ抗原受容体(CAR)」の遺伝子を導入して強化し、一度体外で増やしてから患者に戻す療法で既に使われ始めています。副作用として「サイトカイン放出症候群」を起こし体内で炎症作用(発熱等)を起こすことがあります。T細胞は癌細胞が産生する特有のタンパク質(=抗原)をキャッチして癌細胞を識別し破壊する機能を持ちますが、「クリスパー・キャス9」技術を使い、T細胞の受容体を消滅させ癌細胞を識別して攻撃する能力が高い受容体を新たに作らせる操作を加え、同時に免疫細胞の働きにタガを掛ける受容体「PD―1」を消失させました。まぁ、T細胞を一度体外に取り出してその遺伝子を編集してサイボーグ化させてから増殖し体内に戻す作戦、を更に改良したと言う話ですね。60代の患者計3名に対しての結果に過ぎませんが、部分的な癌(正確には肉腫)の縮小が観察されたとのことです。CRISPR-Cas9 自体がT細胞自体を癌化させる(T細胞白血病)危険性が考えられますが、そこをクリアー出来ているのか、ですね。この様にCRISPR-Cas9 技法を用いた試験的な研究はあらゆる生物を含めた各分野で鋭意行われて来ています。今や論文の掲載数ももの凄い数に達しています。大学、企業のラボでもどこでも囓っているとの現状です。




 上に、つい最近のNature 或いはScience に掲載の論文を紹介しましたが、特に遺伝子工学的な手法を応用した遺伝子関連の治療法については進歩が富に速まり、数多くの先端的な治療法への道が開かれつつあります。この先、5年、10年の内に従来は根治的治療が不可能であった疾患が治療可能となる例も数多く出てくるのではないでしょうか?現況に於いて根治法が無いとされる疾患に対しても、QOLを維持しつつ前向きに考えて生活することが大切と院長は考えています。








  イヌと筋ジストロフィーD 分子レベルでの治療U




2020年2月20日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第5回目です。


 前回ご紹介した論文

Journal of Muscle Research and Cell Motility

June 2019, Volume 40, Issue 2, pp 141-150  First Online: 09 July 2019

https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs10974-019-09535-9

What is the level of dystrophin expression required for effective therapy of Duchenne muscular dystrophy? (アブストラクトのみ無料)

Dominic J. Wells

Neuromuscular Diseases Group, Department of Comparative Biomedical Sciences Royal Veterinary College LondonUK


 ここに、以下の研究手法が採り上げられています。これについて簡略に順に解説していきます。全て遺伝子絡みの手法となります。

@ viral vector mediated delivery of a recombinant dystrophin gene

A antisense oligonucleotide mediated exon-skipping to restore the open reading frame in the dystrophin mRNA

B read-through of premature stop mutations

C genome modification using CRISPR-Cas9

D cell based transfer of a functional dystrophin gene.


今回はこの内の、@、Aまでを扱います。




@ viral vector mediated delivery of a recombinant dystrophin gene

組み替えジストロフィン遺伝子のウイルスベクターを媒介しての導入


 正しいジストロフィンン遺伝子を準備してその部分をカットし、それをウイルスに組み込んで目的とする筋細胞に感染させ(病気を起こさないウイルスを利用)、核内にその遺伝子を入れるとの方法です。最近の手法では、その遺伝子は染色体に組み込まれることなく機能を発現しますので、子孫に遺伝して伝わったり発癌の原因になったりするおそれがありません。但し、ジストロフィンタンパク質は巨大ですのでその設計図となる遺伝子部分も巨大サイズとなり、ウイルスに組み込んで運搬するのが困難です。そこでジストロフィン遺伝子の必要不可欠な部分だけを使うことを考え、短縮型の遺伝子を作出(国立精神・神経センター神経研究所所長 武田伸一氏が開発)しそれを導入したところジストロフィンとして機能することが世界で最初に確認できました。詳細は、

https://www.jmda.or.jp/mddictsm/mddictsm6/mddictsm6-1/ をご参照下さい。問題はそのウイルスを如何に効率よく筋細胞に感染させるかですが、現在は筋内に注入するとの手法が検討されているようですね。筋肉はマスが大きく、全身の筋の筋細胞に感染を起こす量の大量のウイルスをどうやって体内或いは筋中ににバラ撒くかですが、免疫が作動してウイルスを退治する状況に陥らせるのも困ります。一時的に免疫抑制状態にさせた上で強力な感染を生じさせるのかなどと門外漢の院長は想像をたくましくさせています。


A antisense oligonucleotide mediated exon-skipping to restore the open reading  frame in the dystrophin mRNA

 ジストロフィンメーセンジャーRNAを正しく読み込ませる為の、アンチセンスオリゴ核酸を用いたエクソンスキップ法


 この方法の具体例として以下引用します:

「https://www.ncnp.go.jp/press/release.html?no=502

令和元年11月6日

国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター(NCNP)

デュシェンヌ型筋ジストロフィー治療薬(NS-089/NCNP-02)の

医師主導治験(First In Human試験)開始について


 国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター(小平市 理事長:水澤英洋、以下、NCNP)は、日本新薬株式会社(本社:京都市、社長:前川重信、以下、日本新薬)と共同研究を進めてきたアンチセンス核酸医薬品であるデュシェンヌ型筋ジストロフィー(以下、DMD)治療薬(NS-089/NCNP-02)を用いて、医師主導治験(First In Human試験)を本日11月6日より開始いたします。


<開発の背景>

 デュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)は、ジストロフィン遺伝子の変異が原因で、筋の細胞膜からジストロフィン・タンパク質が失われ、徐々に筋力低下が進む難病で、男児に発症します。「エクソン・スキップ治療」は、アンチセンス核酸と呼ばれる短いDNAの様な合成核酸を用いて、メッセンジャーRNA前駆体から成熟メッセンジャーRNAが作られる過程で、タンパク質に翻訳されるエクソン領域の一部を人為的に取り除く(スキップする)ことで、アミノ酸読み取り枠のずれを修正する治療法です(イン・フレーム化といいます)。この結果、正常なジストロフィンに比べると、タンパク質の一部が短縮するものの、機能を保ったジストロフィンが発現して筋機能の改善が期待できます。この治療でスキップの対象となるエクソンは患者の変異形式に応じて異なり、現在までに、本邦では、エクソン53スキップ薬であるNS-065/NCNP-01(ビルトラルセン)が承認審査中です。しかしながら、エクソン53スキップ薬が適応にならない患者に対して、別のエクソンを標的とした薬剤の開発が喫緊の課題となっています。

<開発の内容>

 NS-089/NCNP-02は、NCNPと日本新薬が共同で開発した世界初のエクソン 44 スキップ薬です。モルフォリノ核酸が本来有する高い安全性に加えて、特許出願技術である新規高活性配列探索法を用いて開発した配列連結型のモルフォリノ核酸製剤であり、高いエクソン・スキップ活性を有しています。これまでに得られた非臨床試験の結果からは、エクソン44スキップに応答する変異形式の DMD患者細胞における有効性が確認されており、病気の進行を抑えることが期待されます。


<今後の展開>

 本試験は、国産アンチセンス核酸医薬品であるNS-089/NCNP-02を、ヒトに対して初めて投与する医師主導治験であり、NCNP病院において6例のDMD患者さんに対して行われます。主要評価項目である安全性の他、NS-089/NCNP-02投与後の薬物動態、ジストロフィン・タンパク質の発現確認等の有効性についても検討を行う予定です。

 

 患者さんはジストロフィン遺伝子を持ってはいても、遺伝子を読み込む場所をズレさせるような間違った部分が挟み込まれている場合があります。エクソンスキップ法とは、薬剤を投与することで、その様なジストロフィン設計図の誤った記述部分を飛ばして(スキップして)ジストロフィンを作出させる方法です。タンパク質が合成される過程では、DNAの遺伝子暗号部分を mRNA(メッセンジャーRNA)が一度転写し、それを元にタンパク質が合成されますが、その途中の過程で修整を加えようとの発想ですね。この様な目的の薬剤を核酸医薬と呼称します。異常な遺伝子そのものを治すのでは無く、そこからタンパク質が合成される過程に介入する作戦ですね。既に上記の治験が6名の患者さんに対して実施とのアナウンスですが首尾良く進む事を祈っています。

尚、アンチセンスオリゴヌクレオチド (ASO)を含めた核酸医薬品については

https://ja.wikipedia.org/wiki/核酸医薬 に詳述されています。

 投与形態、即ち、点滴で血中に投与するのか、飲み薬の形態か、などは上記説明文からは不明です。








  イヌと筋ジストロフィーC 分子レベルでの治療T




2020年2月15日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第4回目です。




分子レベルでの治療



 DMDは責任遺伝子が同定されましたので、遺伝子加工(編集)技術によって、異常部分を上書きする、置換する、パッチを当てるなどすればそれで終わるだろうと一般の方は思われるかもしれませんが、理屈は判っていても実際にそれをどの様に実現するかには目の前に険しい山が立ちはだかります。これが簡単に実現できるようになれば、DMDと言わず世の中の難病と呼ばれる疾患の多くは治療できてしまうでしょうね。

 遺伝子そのものは単なる設計図ですから遺伝暗号を元に必要なタンパク質であるジストロフィンを自身では合成することは出きず、それを正しく読み取ってアミノ酸を配列しジストロフィンを合成する過程が必要です。暗号の中に一部間違った部分がある場合、それを飛び越えて暗合を読めばジストロフィン或いはジストロフィンもどき(同じ様に機能する)が合成できる場合もあります。

 血中に薬理成分を溶かし込んでそれで不足する機能を補う遣り方は、例えば高血圧を抱える院長が降圧剤を服用して末梢血管の収縮を緩め、血圧の絶対値を下げて各種の臓器障害を予防するなどの場合に相当しますが、筋細胞の細胞骨格なる構造部品をその方法で供給することは困難です。ジストロフィン自体(巨大分子です)を仮に筋細胞中に注入出来たにしてもまともな細胞膜構造は作れないでしょう。細胞核からの指令により、細胞内部からその構造を作らせるしかありません。従って、他の代替え薬で同様の操作を補う、部材を補給する作戦ではなく、遺伝子の操作に関与する薬剤を投与するのがベストです。

 薬剤として、例えばジストロフィンが構造的に関与する、筋細胞にカルシウムを通す関所をブロックする仕組みを代用出来れば良いのですが、その様な薬剤、或いは抗体を投与した場合に何か副次的な問題が起きないか検証する必要があります。

 院長が服用している降圧剤の商品名ノルバスク錠ですが、カルシウム拮抗薬と言って、カルシウムの濃度を低減することを通じ、心臓の冠動脈や他の動脈壁の筋の収縮を緩めて血圧を下げる働きがあります。まぁ、パイプの直径を拡大して圧を低くする作用機序です。これと同じく、骨格筋の筋細胞に対して特異的に作用する抗カルシウム薬があればそれを服用する事で筋細胞の破壊の進行を抑えることは理論上可能です。但し、正常な筋の収縮機能を低下させるようなことがあれば、運動障害が起きてしまい臨床的な意味がありません。因みに、このカルシウム拮抗薬を過剰服用すると骨格筋の収縮パワーまでもが落ちてしまい、低血圧と相俟って動作にキレがなくなります。以前に院長もこの副作用に襲われたときがありますが、二日酔いの時の様なフラフラ感が伴い、仕事になりませんでした。

 新薬の開発にはそれを仕上げる迄には100億円程度は必要と聞きますが、絶対的な患者数の少ない筋ジストロフィーに対して製薬会社が乗り気になるのは難しいかも知れません。他の薬品開発への応用が期待できる遺伝子関連の創薬は別として。

 −DMDの根源的な治療に対して門外漢である院長は耳学問として知見を勉強するのみですが、過去5年程の間に遺伝子レベルでの技法が格段に進み、治療面での曙光が見えてきましたのでそれについて以下触れましょう。




 1年半前の話になりますが、2018年8月30日にサイエンスのオンライン版に以下の論文が発表されました。


https://science.sciencemag.org/content/362/6410/86

Gene editing restores dystrophin expression in a canine model of Duchenne muscular  dystrophy

Leonela A. et al. Science  05 Oct 2018: Vol. 362, Issue 6410, pp. 86-91

DOI: 10.1126/science.aau1549


「遺伝子編集の結果デュシェンヌ型筋ジストロフィーのモデル犬でジストロフィン発現が回復した」

 (全文無料で読めます。是非ご覧下さい)


 小型哺乳類のネズミではなく大型動物である筋ジストロフィー罹患犬にて、シングルカット遺伝子編集技術を利用して骨格筋と心筋内のジストロフェンを発現させることに成功した、とのテキサス大学の研究者からの報告になります。ジストロフィンが正常な状態の100%の発現をしなくとも、ある程度の量(15%以上)の発現に漕ぎ着ければ症状が改善され得るとの評価も行っています。完璧であるとはまだ言い切れませんが、イヌで成功したとなると次はヒトに同じ方法を試しても安全の度合いが高まったことになります。

 ネズミは小型で飼育も容易ですので医学実験には多用されますが、絶対的なサイズが小さいので、ジストロフィンが欠如して筋の収縮力が低下してもそこそこに歩けてしまい、症状が明確に反映されない欠点があります。院長のコラムに毎度登場の二乗三乗の法則ですが、カラダの長さが10倍になると体重は10の三乗の1000倍になりますが、筋の断面積は二乗の100倍にしかならず、単純計算では同じ動作をするには筋の断面積当たり10倍の負荷が掛かります。詰まり、ボディサイズが大きいと筋に問題があれば覿面に動作に問題が出てくる訳です。イヌを用いてジストロフィン発現実験を行い、改善を見たとの結果は、その方法の有効性をより確実性の元に確認し得たことを意味し、その点で優れた業績であるのは間違いがありません。厳しい見方をすれば、幾らネズミを使って実験しようとも所詮ネズミでのことしか判らない、と言う訳です。筋骨格系に関与することは最後は一定以上のボディサイズの動物を利用する事が必須となると院長は考えます。




 ヒトとほぼ同じくジストロフィンを欠損して筋ジストロフィーを発症するイヌのコロニーが確立され、その遺伝、臨床像、病理、分子生物学、免疫化学的な面でヒトのデュシェンヌ型筋ジストロフィーと比較検討を行ったレビューが1992年に報告されています。以下を参照して下さい。だいぶ以前からイヌがヒトのDMD研究に利用可能であることが理解されている訳ですね。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/ajmg.1320420320

American Journal of Medical Genetics

Canine X‐linked muscular dystrophy as an animal model of Duchenne muscular dystrophy: A  review (抄録のみ無料)

eth A. Valentine, et al. First published: 1 February 1992

https://doi.org/10.1002/ajmg.1320420320




 どの程度のジストロフェンを発現させれば機能回復できるのか、についてですが、王立ロンドン獣医大学の比較生物医学部門 神経筋疾患研究グループに属するDominic J. Wells さんが、7ヶ月前の昨年2019年の7月に以下報告しています。同じ獣医仲間が頑張ってくれていて院長は正直嬉しく思います。比較生物医学部門Comparative Biomedical Sciences の comparative  なる語が、幅広く動物種を見る獣医ならではの視点を端的に表しています。因みに欧米、特に米国では人間の医者が狭く人間しか診る視点しか持たないのに対し、獣医師は幅広く哺乳動物の事を考え視野が広いとのことから、人間の医者よりは格が遙かに上の立場となっており、大学入学も医科大学入学以上に非常に困難です。

Journal of Muscle Research and Cell Motility

June 2019, Volume 40, Issue 2, pp 141-150  First Online: 09 July 2019

https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs10974-019-09535-9

What is the level of dystrophin expression required for effective therapy of Duchenne muscular  dystrophy? 

DMDの効果的な治療の為にはどの程度のジストロフィン発現が必要か?

(抄録のみ無料で読めます)

Dominic J. Wells

Neuromuscular Diseases Group, Department of Comparative Biomedical Sciences Royal  Veterinary College London UK


 過去の研究を調べたところ、等しく骨格筋、心筋共におおよそ20%程度のジストロフィンが分布、発現していれば、病気の進行をほぼ防止するのに十分であることが判った、との報告です。詰まり、遺伝子技術をもってこの程度に相当するジストロフィン(or ジストロフィンもどき)を作らせる事が出来れば筋細胞は壊れないと言うことになります。

 以上、DMDの治療に対し、王手が掛かる直前にまで進んで居る様にも院長は感じますがどうでしょうか?

 次回からは分子治療の具体例に入ります。







 

イヌと筋ジストロフィーB 病因と診断




2020年2月10日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第3回目です。




病因



 1986年になって漸く デュシェンヌ型筋ジストロフィー DMD の原因遺伝子が特定されました。それまでは男児のみに発症し伴性劣性遺伝の形式を取ることから X染色体の上に責任遺伝子の遺伝子座があることまでは判っていたのですが、遺伝学的技法の進歩が遺伝子の同定を可能にしました。

 この責任遺伝子は性染色体である X染色体上(性染色体とは雌雄の決定に関与する染色体−遺伝子の塊−のことですが、XX だと女性に、XY だと男性になります)の遺伝子座 Xp21 にある遺伝子です。異常な遺伝子を抱えるX染色体を小文字 x で記述すると、正常女性は XX、保因女性は Xx、正常男性は XY、発症男性は xYとなります。Y染色体には x の異常性をカバーする力が無くこの結果男児が DMD を発症します。この様に性別に伴い発現する遺伝形式を伴性遺伝と呼びます。女性でも xx の場合、或いは xO (ターナー症候群)の場合には発症します。或いは Xx の場合でも例えばX側の抑制作用が弱いケースでは軽度から重度までの症状を発現し得ます。勿論保因者である母親からの遺伝には拠らず、当該男児に突然変異で発症する例もありますが、この様な発症例を孤発性 こはつせいと呼びます。但し、母親側が卵子を作る過程で、正常X染色体が x に変異するし易さは母親側に内在する可能性はあると思います。

 この責任遺伝子は遺伝子産物ジストロフィン dystrophin と言う巨大タンパク質を作る為の設計図に相当しますが、設計図が存在していないと合成のしようがありませんし、また設計図に誤りがあると、ジストロフィン合成過程でその設計図の読み込みが上手く進まず矢張り正しく合成ができません。その結果正常な構造のジストロフィンが筋細胞の<部品>として存在せず、不具合が発生するとの機序になります。因みにベッカー型では遺伝子の設計図の異常が軽度であり、正常値よりは量は少ないものの機能可能なジストロフィンが合成されるため、筋破壊の速度が低下し、臨床的にマイルドな像になります。

 男児は初期には問題なく成長していくのになぜ途中から筋肉が落ちてしまうのか、筋肉に異常があるなら最初から問題が出る筈では無いかと疑問に思われた方も居るかと思います。実はDMDの患者さんの筋肉自体は収縮力も問題なく機能し、母体内での胎児また生後数年の間は著しく成長肥大して行きます。ジストロフィンは筋の収縮力に関与する<部品>ではなく、筋肉の細胞、即ち筋線維の細胞膜の近くに存在し、筋細胞の形並びに機能に強度を与え破壊から守る役目を果たします(細胞骨格と言う)。筋肉細胞が増殖し、動作を行うのに必要な筋量を得る以上に筋細胞の破壊が上回ると運動障害が発症することになります。筋細胞の分裂増殖速度と分裂回数には限界があります (細胞は無限回分裂増殖することはできず回数が決まっています、遺伝子にあるテロメアと呼ばれる部分が「すり減る」と分裂できなくなり細胞は死に絶えます)ので、やがては筋破壊(より正しくは筋崩壊と言うべきでしょう)のスピードが筋の成長・増量のスピードを上回り、筋量が低下していきます。これがこの疾患の本態です。




 正常な筋細胞に於けるジストロフィンタンパク質の局在については、例えば、既に20年前の論文になりますが、

Allamand, V. & Campbell, K. P. Animal models for muscular dystrophy

: valuable tools for the development of therapies. Hum. Mol. Genet. 9, 2459-2467, 2000 DOI: 10.1093/hmg/9.16.2459 

 の図2が大変分かり易く示してくれます。

(https://www.researchgate.net/publication/12317399_Allamand_V_Campbell_K_P

_Animal_models_for_muscular_dystrophy_valuable_tools_for_the_development_

of_therapies_Hum_Mol_Genet_9_2459-2467 から無料で入手可能、全文が読めます)


 ジストロフィンが欠如することで筋の細胞膜が脆弱性を持ち、細胞外(マトリックスと言う)に存在するカルシウム(Ca)イオンが細胞内に流入しますが、それが筋肉に収縮力を産生させる大本の、アクチンーミオシン構造を破壊します。失われたところを取り戻すべく筋細胞(=筋線維)は増殖します。この様な事が筋肉内部で毎日繰り返されていますので、組織を切り取って顕微鏡で観察すると、破壊されて小さくなった筋線維と再生しつつある筋線維がモザイク状に混じった特異な組織像を示します。病勢が進むと筋線維は消失し脂肪組織で置き換えられます(ふくらはぎの仮性肥大など)。

 なぜカルシウムイオンが筋細胞を壊すのかについて説明しましょう。

 筋収縮の調節が細胞内カルシウムイオン濃度の変化により制御されることが1960年に江橋節郎氏らのグループに拠り発見されました。それより20数年後となりますが、院長も家畜生理学の講義で一連のこの業績に触れ、日本人が凄い発見をしたなぁと感銘を受けたことを思い出します。筋収縮に纏わる知見の学習は生理学を勉強する上での1つのトピックと言ってもよいでしょう。学期末試験にも<筋、アクチン、ミオシン、カルシウム、トロポニンの語を使用して作文せよ>などの問題が出た様にも記憶しています。まぁ、エネルギーを使ってカルシウムイオンを少しずつ筋細胞内の小胞体に貯めて置き、神経刺激が来るとそれを一時的に放出し、その刺激でアクチン−ミオシンを収縮させて張力を産生するとの仕組みです。アクチンとミオシンは交互に平行に配列していますが、互いに入れ子になることで筋の長さが短くなる、詰まりは張力が産生される仕組みです。直接のエネルギー源としてはATP(アデノシン3リン酸)を利用します。カルシウムイオンは収縮のトリガーとして作用される訳ですね。ジストロフィンがないと細胞外のカルシウムイオンの流入をブロックする関所が機能不全となり、筋細胞内のカルシウムイオン濃度が異常化し、簡単に言えばアクチンーミオシンが滅茶苦茶な動きを始めてしまい壊れてしまう訳です。

 タンパク質やペプチドなどの高分子を除き、構造式が判明している最大の天然有機化合物としてマイトトキシンと言う海産毒があるのですが、藻類がそれが共生するイソギンチャク(正確にはスナギンチャク)の中でこの毒素を合成し蓄積されます。イソギンチャクを餌とする魚の体内に更に蓄積、濃縮され、それを人間が食べると中るとの図式です。この物質が細胞膜のカルシウムチャネルの透過性を促進し、細胞内のカルシウムの濃度を上げ、筋肉の異常収縮を起こします。これに拠り筋細胞即ち筋線維が破壊され、横紋筋融解症を発症し、血中に多量に流出したミオグロビンが腎臓に詰まり腎不全を引き起こします。心筋、冠動脈に対する障害、機能異常も来すでしょう。マイトトキシンに拠る筋破壊はそれが存在する間の一時的なものですが、カルシウムイオンの過剰な流入が筋破壊を惹き起こす点に於いては筋ジストロフィの発生機序と類似します。




診断



 男児に於いて小学校低学年の頃には駆けっこで同級生に全然追いつけなくなる、階段に上るのが苦しく手すりを利用する、ふくらはぎが膨れるなどの典型的な症状が現れます。ふくらはぎの筋肉(腓腹筋、ヒラメ筋)が萎縮する為に踵がアキレス腱で引っ張られ、つま先立ち歩行する例も見られます。床から起立する際に、太ももに手を付いて上体を起こす特有の動作(登攀性起立 ガウアー徴候)がほぼ観察されますが、これは広義の脊柱起立筋の筋力低下に対する代償的な学習動作ですね。


 DMDの原因が確定できなかった時代には、これらの症状に加え、筋肉を生検して顕微鏡で組織像を見ることで、真のDMDであるかは兎も角、筋ジストロフィーとしてのほぼ間違いの無い診断が為されました。


 現在では血液検査で血清クレアチンキナーセ濃度を測定し、まずスクリーニングします。血清クレアチンキナーセは筋組織が破壊される時に血中に放出される物質ですが、例えば心筋梗塞を起こした場合にも値が増大しますので、<只の心臓発作>と心筋梗塞を区別する際にも重要な指標となります。まぁ、この値が高く出ていて更に歩行も異常を来しているとなると次の検査に進みます。何のことはない、只血液サンプルを専門機関に送り、遺伝子診断を行うことになります。異常があればDMDと確定診断されます。これで確定できない場合は、責任遺伝子そのものの有無や遺伝暗号の異常を検証するか、筋生検を行い、筋線維のモザイク状の組織像を確認しまたジストロフィンが存在しないことを特殊な染色法で確認して確定診断とします。

 責任遺伝子即ち何が悪いのかが判明しており、或る意味原因と結果は単純明快に結びつきますが、治療となると容易ではありません。次回コラムからは治療に向けた取り組みについて最新の研究動静も踏まえご紹介します。


 ちなみに、イヌの場合は血液サンプルにて遺伝子検査をして呉れる臨床システムになっているのか院長は情報を持っていませんが、クレアチンキナーセ濃度の測定は簡単ですし、筋生検での診断も比較的容易に行い得るでしょう。







 

イヌと筋ジストロフィーA デュシェンヌ型筋ジストロフィー




2020年2月5日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 筋ジストロフィーのお話の第2回目です。



分類



 ヒトに於いて知られる筋ジストロフィーですが、同じ哺乳類で同じ様な筋の構造を持つ他の動物でも起こり得ます。ヒトで知られているのと同じ発症機序なのですが、遺伝子の異常に拠り筋を形作るタンパク質が異常なものとなり、筋線維が変性、脱落するパターンです。イヌの本疾患に入る前に、研究が進んでいるヒトの例を元にして病態を概略しましょう。


 一般社団法人 日本筋ジストロフィー協会のサイトに筋ジストロフィーが簡潔に分類されています。是非参照下さい。

https://www.jmda.or.jp/mddictsm/mddictsm2/mddictsm2-1/


「筋ジストロフィーとは「筋線維の変性・壊死を主病変とし、進行性の筋力低下をみる遺伝子の疾患である」と定義されています。その遺伝形式により、分類が行われてきました。しかし、近年分子遺伝学の進歩により、遺伝子座が次々と明らかにされ、またクローニングされ、それに基づいた疾患分類が試みられるようになっています。主な病気の分類を下記の表に示しました。」


X連鎖劣性遺伝 (母親が遺伝子を伝えるが母親当人は大方無症状)のものとして

Duchenne型  遺伝子座 Xp21 遺伝子産物 dystrophin

Becker型                  Xp21                dystrophin

Emery-Dreifuss型       Xq28                emerin

 (以上、抜粋引用)


 他に、上記、性染色体上に異常を持つタイプの他、常染色体劣性遺伝(2個で一組の遺伝子の両方が異常な時に発症、本邦では福山型が多く見られます)、常染色体優性遺伝(2個で一組の遺伝子の片方が異常な時でも発症)のタイプがあり、単に筋疾患に留まらず精神薄弱を伴う型も存在します。また冒される筋の部位にも違いが出ます。


 同じ名前の筋ジストロフィーであっても、変異している遺伝子が異なると筋構造中の異なる<部品>が異常を来し、筋線維の破壊へとつながること分かります。いわゆる筋ジストロフィ−の名で一般に知られている疾患は、この分類の中のデュシェンヌ型と呼ばれるものです。本コラムではこの先、このデュシェンヌ型について主に扱います。




デュシェンヌ型筋ジストロフィー




米国筋ジストロフィー協会

https://www.mda.org/disease/duchenne-muscular-dystrophy

以下ここに掲載の記事を紹介します。


デュシェンヌ型筋ジストロフィー Duchenne muscular dystrophy (DMD)とはなんですか?

 初期にはDMDは肩と上肢筋並びに臀部と腿の筋が冒されます。これら筋の衰えは床から立ち上がったり、階段を上ったり、バランスを取ったり腕を上げるのを困難にします。

 DMDは遺伝性の異常に起因し、進行性の筋変性を示しますが、ジストロフィンと呼ばれる筋肉を正常に保つ機能のタンパク質が変化し、筋が衰弱することが特徴です。

 DMDはジストロフィン症 (ジストロフィノパチー) として知られる4つの状態の内の1つです。このグループに属する他の3つの疾患は、ベッカー型筋ジストロフィー(BMD、これはDMDのマイルドな型)、臨床的にDMDとBMDの中間の像を示すもの、それと臨床的に随意筋疾患をほとんど或いは完全に伴わないDMD関連性の拡張型心筋症(心臓病)です。

 DMDの発症は子供時代の初期に、普通は2歳と3歳の間に起こります。この疾患は原則として男児にのみ影響しますがまれに女児にも起こり得ます。欧州と米国に於いてはDMDの有病率は10万人当たりおよそ6人です。


DMDの症状はどのようなものですか?

 筋の脆弱化がDMDの症状の根幹に在ります。2,3歳と言った早期に始まり得、最初は四肢の近位筋(体幹に近い側の筋)が冒され、後には遠位(体幹から遠い側)の四肢筋が冒されます。通常は、上肢筋が冒される前に下肢筋が冒されます。罹患した子供はジャンプしたり走ったり歩くのが困難になることがあります。

 他の症状はふくらはぎが肥大したり、あひる歩行をしたり腰椎前弯(腰の部分の脊椎骨が腹側に凸レンズの様に曲がる)が見られます。のちには、心臓と呼吸筋もまた冒されます。進行性の筋の衰弱と側弯は肺機能の障害をもたらしますが、これはやがては急性の呼吸不全を惹き起こし得ます。

 ベッカー型の筋ジストロフィー (BMD) はDMDに非常によく似ていますが、発症はたいていは十代か成人期です。BMDの進行経過はゆっくりでDMDに比べると進行に関する予測可能性は低いです。


何がDMDを起こすのですか?

 DMDは1860年代にフランスの神経学者ギヨーム・ベンジャミン・アマン・デュシェンヌにより最初に記載されました。しかし1980年代に至るまで筋ジストロフィーのいずれの種類についてもその原因については殆ど知られていませんでした。

 1986年にMDAからの資金援助を受けた研究者達がX染色体上の特定の遺伝子を同定し、それが変異するとDMDに繋がることを発見しました。1987年に、この遺伝子に関連するタンパク質が同定されジストロフィンと名付けられました。

 筋細胞内でのジストロフィンタンパク質の欠如は筋細胞を脆弱にし簡単に損傷される様になります。DMDはX染色体連鎖型劣勢遺伝のパターンを示し、母親により受け継がれますがこの母親を保因者と呼びます。


DMD保因者とは何ですか?

 DMD保因者とは正常なジストロフィン遺伝子を一つのX染色体上に持ち、もう一方には異常なジストロフィン遺伝子を持つ女性のことです。MDMの保因者の殆どは自身ではこの疾患の徴候や症状を示しませんが、わずかの者は示します。この場合、症状は軽微な骨格筋の脆弱や或いは心臓への影響から重度の脆弱や心臓への悪影響に及び、その開始は子供時代から成人期までに起こり得ます。


DMDの平均余命はどれくらいですか?

 比較的最近まで、DMDの男児は十代を大きく超えて生き延びることはありませんでした。心臓並びに呼吸ケアの進歩のお蔭で、平均余命は延びつつあり、DMDを抱えた多くの若者が大学に通い仕事を持ち結婚し子供を持っています。30代初期にまで生き延びる事は以前に比べてより普通の事となっています。


DMD研究の現況はどうなっていますか?

 MDAの支援を受けた研究者達は研究アイデアを精力的に追い求めていますが、幾つかは期待でわくわくさせる様なものを含んでいます。例えば遺伝子療法、エクソンスキッピング法、終始コドン通読療法、また遺伝子修復療法などです。ヒトの臨床試験ではこれらの戦略の幾つかが実際進行中です。

(以上院長訳)




 1986年になって Monaco A. らに拠り漸く DMD の原因遺伝子が特定されましたが、つい最近の話で驚かされます。

Monaco A, Neve R, Colletti-Feener C et al. (1986). “Isolation of candidate cDNAs for portions  of the Duchenne muscular dystrophy gene”. Nature323 (6089): 646-50. doi:10.1038/323646a0.  PMID 3773991


 それ以前には対象療法的な手当をする以外に出来ることはありませんでした。原因の特定以後30年以上に亘り治療法の模索が鋭意続けられてきていますが、遺伝子関連の研究技法が過去5年程の間に著しい進展を見せ、本疾患の治療にも光が差し始めています。詳細は本コラムの治療の項で扱います。

 DMD 関連性の拡張型心筋症が存在するとのことですが、本邦でも拡張型心筋症の幼児や学童が米国に渡り心臓移植手術を受けたとの報道を時に耳にしますが、この中の一部にはDMDとしての拡張型心筋症が含まれている筈です。筋が特異的に変性、脱落し心臓壁の厚みが薄くなり心臓全体が拡張する経過は、確かに心筋に限定された筋ジストロフィーの病態、病型を示唆するものです。また同時に、DMDを含めた筋ジストロフィーに対する治療法が確立されれば、それが(一部の)拡張型心筋症の進行を抑える治療にも当然生かせるものと院長は考えます。ちなみに、福山型筋ジストロフィーを起こすフクチン遺伝子の異常は、拡張型心筋症1X型等の原因となることが判明しています。







 

イヌと筋ジストロフィー@ 概論




2020年2月1日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 前回までに歩行異常を惹き起こす神経変性疾患であるイヌの退行性脊髄症  Degenerative  Myelopathy  (DM)  について3回に亘り採り上げました。歩行失調、運動失調に関する疾病のお話ををもう一つ続けたいと思います。


 さて、我々は普段何気なくカラダを動かしていますが、

  @運動を発令する信号を出す脳、

  Aその指令信号を筋に伝える神経、

  B指令を受けて収縮を行い力学的パワーを出力する筋

  C筋の「感覚」を脳に戻す神経

  D筋収縮発現の支持媒体となる骨と周辺組織、


 これらが正しく組み合わさって円滑な運動が可能になっています。

 この内のいずれか1つが障害を起こすと運動機能障害が発生します。退行性脊髄症 DMの場合はAとCに障害が発生する疾患ですし、また変形性股関節症はDが原因ですね。今回は、神経筋変性疾患の1つですがBの障害詰まりは筋そのものに起因する疾患の1つ、筋ジストロフィーについてお話を進めます。

 獣医療としてのイヌの筋ジストロフィーが本コラムのメインターゲットですが、ヒトの筋ジストロフィーの研究が進み知見が積み重ねられていること、そして同じ哺乳動物のイヌにそれを当て填めて考える(外挿 がいそうと言う)ことが出来ることから、ヒト、イヌ区別無く扱います。しかしながら、実際のところ、イヌのブリーダーが脆弱で異常のある子犬を市場に出す前に淘汰してしまうこと、また経済的な負担のもとで遺伝子検査をしてまで確定診断を得る例が少ないため、イヌの筋ジストロフィーは確実に存在するものの獣医臨床面では稀な疾患となります。

 治療の項で述べますが、最終的にヒトに適用する目的で、大型の動物としてのイヌの筋ジストロフィー個体に対し、考えられた治療法が有効かを検証する試みが行われ、それが一部成功したとの最近の論文が2018年に出ました(のちほど紹介します)。寧ろそれを契機としてイヌの筋ジストロフィーが逆に脚光を浴びる形かと院長は思います。イヌの筋ジストロフィーはどうもヒトの治療の為の研究用途としての位置づけの色彩が強いですね。

 全7回に亘り、筋ジストロフィーの話題を採り上げます。




筋ジストロフィーとは



  筋ジストロフィー Muscular Dystrophy (MD) とはどの様な疾患でしょうか?

 ヒトの難病としては誰でも聞いたことのある疾患名だろうと思います。院長が子供の頃にもこの患者さんのドキュメンタリーをTVで見た記憶があります。20位の患者さんでしたが、言い残したいことを父親に筆記して貰っている場面が映し出され、最後は父親が外出中に息絶えてしまい父親が葬儀の場で涙ぐんでいるシーンで終了しました。大変重い内容の番組であり、40年程の時間は経過したものの院長の記憶に鮮明に残っています。他にも少年漫画誌(少年マガジンだったか?)の子供向けの記事としても採り上げられていました。兄弟揃って発症したが、浮力の効く風呂に入りボクシングの真似事をして遊んでいるとの記事でしたが、その兄弟も程なくして亡くなられたことでしょう。院長が小学生の時でしたが、既に筋ジストロフィーが伴性遺伝で発症し男児のみが罹患するとの大雑把な知識はありました。

 本疾患は横紋筋が変性消失し、再生もほぼ不可能ですので、進行すると心筋や呼吸或いは嚥下に関与する筋までもが冒され、特に前の2つの機能低下は致命症となり得ます。単に手足が利かなくなり移動が出来なくなる程度の話ではありません。呼吸筋(肋間筋、横隔膜、腹壁を構成する筋)が機能を果たせなくなった場合はALSの患者さんと同様に人工呼吸装置を利用すれば対応出来ます。しかし心筋の変性と脱落でポンプ機能が低下した場合(慢性心不全)には心臓移植しか現況では考えられませんが、全身状態が悪く呼吸機能も低下を見ていることからその適用は考えられないでしょう。術後の強力な免疫抑制剤の投与にも耐えられないのではと思います。上に述べた @ A C D が正常ですが B が異常を来す疾患です。

 この疾患は筋肉の細胞本体である筋線維を構成する部品であるタンパク質が遺伝子の異常に拠り作られず、やがては筋線維が破壊され、脱落、消失することがその本態です。ジストロフィー dystrophy とは異栄養(症)、栄養失調、栄養障害を意味する医学用語であり、外見的にやせ細るとの意味ですが、実際には栄養の障害では無く筋線維自体の自己変性と脱落に起因して筋肉量が減少しますので、栄養障害とは本来別のものですが、この名が使い続けられています。


https://www.etymonline.com/word/dystrophy

dystrophy

also distrophy, "defective nutrition," 1858, from Modern Latin dystrophia, distrophia, from  Greek  dys- "hard, bad, ill" (see dys-) + trophe "nourishment" (see -trophy).


 1858年にギリシア語の dys -(困難、悪い、病気)と trophe (栄養)から作られた新ラテン語  dystrophia に由来する言葉です。当時は筋ジストロフィーの本態が解らなかったのですが、まぁ、確かに外見上は低栄養に見えます。

 発音的にはディストロフィですがジストロフィーと記述されます。院長が子供の頃にはウォルト・ディズニーとは言わずにウォルト・ジズニーと言っていましたので、本疾患の日本語名も相当昔からの命名だったことがうかがえます。筋ジスと略称されることもあります。








イヌの退行性脊髄症B 診断と治療




2020年1月25日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 退行性脊髄症  Degenerative Myelopathy  について3回に分けて採り上げますがその第3回目、最終回です。




診断



  DMはどうやって臨床診断を得るのでしょうか?

 DMは消去法に拠り診断を確定します。無疼痛性の後肢の麻痺の診断に加え、ミエログラフやMRIと言った診断テストを用い後肢の脆弱性を来す他の原因を探ります。脊椎骨の異常や椎間板ヘルニア等の神経圧迫要因や脊髄内外の炎症や出血、悪性新生物(例えば多発性骨髄腫)等の他の原因を除外してのち、最後にDMの予測診断に辿り着くのです。これにSOD1タンパクを作る遺伝子の検査を併せ行うことで精度が高められるでしょう。診断を確定させる唯一の方法は、死後に剖検し取り出した脊髄を顕微鏡下で調べる以外に有りません。組織像ではDMには特徴的な脊髄の退行性変化が観察され、それらは他の脊髄疾患に典型的な像とは画像が違っています。




鑑別診断



 DMによく似た疾患には他にどのようなものが有るのでしょうか?

 脊髄に影響するどの病気であれ、DMに非常によく似た運動協調性の消失や筋の衰弱を惹き起こし得ます。これらの疾患の多くは効率的に治療も可能な疾患です。DMと診断する為には、イヌがこれらの疾患ではないと確かめるべく必要なテストを行い、真実を追い求めて行くことが大切です。

 後肢衰弱の最も一般的な原因は椎間板ヘルニア(ヘルニアとは臓器や組織の一部が本来あるべき場所ではない場所にはみ出している状態)です。椎間板は背骨の椎骨同士の衝撃吸収体ですが、ヘルニアになると飛び出た部分が脊髄に圧力を掛け後肢衰弱や麻痺を引き起こします。コーギーなどの脚が短く背中の長いイヌは椎間板の脊髄腔内への横滑りを起こし易いのです。歩幅を稼ぐために背骨を屈伸して胴体の振れで距離を補う策ですね。ひょっとするとこの様なコーギーの運動特性が、椎間板ヘルニア以外にDM自体の発症の原因になっている可能性もあります。ヘルニアを来した椎間板は椎骨のX線撮影並びに脊髄造影で、或いはCTやMRIと言った更に高精度の撮像で検出されます。

 我々が考慮に入れるべき他の疾患は、腫瘍、嚢包、感染症、外傷や出血です。似た様な診断方法を通じてこれら殆どの疾患の診断が可能となります。もし必要で有れば、獣医師を通じてDM診断の助けとなる認定専門神経医に紹介して貰う事も出来るでしょう。お住まいのところの近くの神経医は、例えば米国の例であれば AmericanCollege of Veterinary Internal Medicine 米国獣医内科学大学のウェブサイトの「あなたの近くの専門医を見つけよう」にリンクされる氏名録で見つけることが出来ます。本邦ではこの様なお助けサイトが成立しているのか院長は情報を持って居ません。岐阜大学動物病因神経科に一度相談するのも手です。但し、当然ながら近隣にお住まいの方以外はイヌを連れてのアプローチが難しそうですね。




治療法



 DMをどの様にして治療するのでしょうか?

 DMの進行を食い止めたりその速度を低下させることが明確に示された治療法は一つもありません。インターネット上には、数多くの試みや方法が掲載され推薦されていますが、効くと言う科学的なエビデンス(根拠)は皆無です。DMを抱えたイヌの見通しは残念ながらまだ迫り来る死以外にないのです。

 DMを発症するリスクを持つイヌの遺伝子が発見され、本疾患の発症を予防する療法への道に繋がる可能性が出て来ましたが、まだまだ研究は道半ばです。SOD1の異常を持つイヌの子孫を残さないのも不幸なイヌを生み出す問題の解決にはなります。その一方、患畜の QOL(quality of life 生活の質)は、質の良い看護、理学療法(適度な歩行、水中歩行など)、圧痛の軽減(マット等を利用)、尿路感染の監視(手技的圧迫法にての残尿の排尿を行い並びに膀胱炎発症への注意を払う)、ハーネスと車輪附きカートを利用しての可動性の増大(筋肉量の維持と精神的ストレスの軽減)を図る方法などで改善することが可能です。呼吸低下並びに嚥下障害の域に達すると一般家庭でのケアは相当程度困難になると思われますが、専門病院とタイアップしながら終末期医療に取り組むことは飼い主にとって大きな経験になると同時に、命に対する哲学を深めても呉れる筈です。得られたことをホームページに掲載して世に広めることも社会にとっては大変有益でしょう。


 ヒトの場合もそうですが、おそらくはその多くが遺伝子異常に起因するであろう神経変性疾患に対する根本的な治療法は確立されておらず、対象療法的にケアを進めていくに留まる疾患が多いでしょう。しかしながら医学は最近富に日進月歩の速度を高めていますので、積極的なケアに当たりながら患畜のQOLを維持していくことが大切だと院長は考えます。ご自分が行ったケアが良好な結果をもたらしたと感じた場合は、それを youtube などに公開するのも良いと思います。

次回からは神経筋疾患の1つでヒトに於いて重い臨床症状を示し、また遺伝子或いは分子治療の面からも重要な研究対象である筋ジストロフィーについて、7回シリーズで執筆していきます。








イヌの退行性脊髄症A 病態と原因




2020年1月20日

皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 退行性脊髄症  Degenerative Myelopathy  について3回に分けて採り上げますがその第2回目です。




病態



 初期には胸椎部分の脊髄の白質の退行性変化が起こります。白質とは脊髄の外側の部分ですが、神経細胞(脊髄の真ん中の灰白質−Hの字型の部位−に存在する)から発した神経の枝である軸索が密集する部位となります。脳から四肢へと運動の命令を送り、また四肢から脳への感覚信号を送る神経線維が存在する部位が共に冒され信号の伝達が出来なくなり症状が出る訳です。

 退行性変化は、脱髄(神経細胞から出る1本の太い枝である軸索を取り巻くカバーに相当する部位が消失する)並びに軸索自体の消失からなり、脳と四肢との間の信号伝達に支障を来します。2009年に米国ミズーリ大学の研究グループが本疾患の発症に大きなリスクとなる遺伝子の変異を同定しました。

 発症の機序に関しては、運動神経(運動ニューロン)の脱髄、消失が起きる点に於いて、ヒトの筋萎縮性側索硬化症 ALS の臨床像にも近いものですが、ALSでは通常感覚神経と自律神経は冒されず、例えば膀胱直腸障害は起きません。DMでは感覚ニューロン側並びに自律神経ニューロンも全て冒されます。

 神経変性疾患の中の1つの疾患です。




原因



 上でも触れましたが、2009年に米国ミズーリ大学の研究グループに拠り、本疾患にはSOD1タンパクを作る遺伝子が変異していることが突き止められました。SOD1タンパクは細胞内で発生した活性酸素(分子では無く原子状の形態の酸素)を解消する作用を担うものですが、活性酸素を封じることが出来ないために神経細胞が破壊され脱落していくことが考えられます。しかし実際には、この遺伝子が変異していても活性酸素を消滅させる作用は維持されていることが判り、直接的な活性酸素に拠る害で神経細胞が変性、死滅する機序ではないらしいことが考えられています。現在では遺伝子の異常に拠り、三次元構造に異常を来すタンパク質が作られ、これが毒性を持つのではないかとの説が考えられています。

 実のところ、ヒトのALS 筋萎縮性側索硬化症の場合、家族性の症例では同じくSOD1の遺伝子の変異が観察されることが知られています。しかしながら、ALSでは運動神経のみ傷害されるのに対し、DMでは全ての種類の神経が傷害されるなど大きな違いがあります。また何故にSOD1の変異により、神経細胞のみが特異的に変性するのかの説明も出来ません。神経細胞内では他の細胞と異なり活性酸素からの害を防止するべくSOD1がせっせと作られ続けているのでしょうか?そして遺伝子の異常に拠り異常な構造の毒性を持つSOD1タンパクが蓄積されていくとの機序なのでしょうか?

 イヌでは数多くの犬種にこの遺伝子変異が存在する事が知られるに至っています。臨床上問題となるのは、ジャーマンシェパード、ローデシアン・リッジバック、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク、ウェルシュ・コーギー・カーディガン、ボクサー、チェサピーク・ベイ・レトリーバー、スタンダードプードルですが、本邦では大型犬の飼育頭数は少なく、事実上コーギーの疾患と捉えて宜しいでしょう。この遺伝子(父母から1つずつ貰うので遺伝子はペアで存在する)がペアで正常、片方が変異、ペアで変異、の順に発症確率が高まります。


 一定の老齢犬以上に発症することから、SOD1の異常により神経細胞内に生時から少しずつ蓄積されてきた異常物質が遂に限界値を超えて細胞を死滅させ始めるのだと考える事も可能ですが、証明はされていません。以下飽くまで単なる院長の思いつきレベルの話を述べます: 脊椎骨の頭と骨盤の中位は対傾椎骨(たいけいついこつ)と呼称し、ここが一番背腹方向に折れ曲がる大きな可動域を持って居ます。この大きな運動性に拠り当該箇所の脊髄に栄養障害の発生或いは物理的圧迫が加わり、遺伝的脆弱性を抱えた犬種に対して発症の引き金となり、それが隣接する神経に次々と悪影響をもたらし波及していくのではないかと想像しています。これは1つには、コーギー犬では胴長短足の形態的特徴から脊椎骨への運動負担が大きく(脚が短いので背骨の屈伸の助けで歩幅を大きくする)、その内部を通過する脊髄にも影響が大きいので頻度高く発症する可能性を考えてのことです。

 発症すると進行が速い点に於いては、以前の精神医学に関するコラムにて触れた抗NMDA受容体脳炎を想起させます。しかし抗NMDA受容体脳炎の方は、何らかの切っ掛けで免疫系が暴走を開始し、脳神経細胞に対する外的要因で一気に組織が破壊されて急激な進行を見るものであるのに対し、DMやALSでは免疫系の異常攻撃に起因する病態では無く、神経細胞内部での異常に起因するものだろうと思われます。自己免疫性の疾患であれば遺伝的背景+環境要因の組み合わせとして高齢にならずとも発症することが期待されますが、高齢個体で発症することは異常物質の蓄積が関与することを示唆するものでしょう。これはアルツハイマー型痴呆なども然りですね。遺伝的要素が強ければ異常物質の蓄積が急速であり、その分若い時代に発症するとの解釈です。しかしながら、ヒトのALSに対して現在のところ唯一の薬効が認められている薬品であるリルゾール(促進性神経伝達物質グルタメートの阻害剤)は、神経の軸索に害を及ぼすグルタミン酸の作用を抑制する作用機序(神経細胞内への害となるカルシウムの流入を抑制)のものですので、単純に<異常物質蓄積仮説>だけでは説明出来ないところが確かにあります。

 因みに、ヒトのALSに関しては、一般社団法人日本神経病理学会ホームページに東京都神経科学総合研究所 の柳清光氏執筆の記事が掲載され大変分かり易く纏められており参考になります。 http://www.jsnp.jp/cerebral_11_main.htm


 体外に神経細胞を取り出して培養し様々なテストが可能なら、まだしも病因の解明は進む筈ですが、これが困難なのも痛いところです。この様な訳で、現在までのところ、DMはALSなどと同様、殆ど原因不明と言って良い疾患ですが、院長の予想ですが、10年単位程度でジワジワと解明が進んで行くのではと考えています。








イヌの退行性脊髄症@ 概要




2020年1月15日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。


 後肢に運動障害の起きる疾患の内、股関節並びに膝関節の整形外科的疾患詰まりは主に骨に原因が存在するものについて前回まで取り扱いました。今回は、骨に原因があるのでは無く、筋肉を動かす脳からの指令を伝える神経路−信号を伝える電線部分−に問題が発生し歩行困難を来す、言わば神経内科的な疾患である退行性脊髄症  Degenerative  Myelopathy  について3回に分けて採り上げます。

 よく似た名前の疾患に変形性脊椎症がありますが、こちらは神経そのものではなく、脊髄神経を取り巻く椎骨(=脊椎骨)に変形等が発生し、その内部を通過する脊髄神経に圧迫を加えて二次的なしびれ、麻痺等の問題を惹き起こすものです。退行性脊髄症ではその様な脊髄神経周囲を覆う椎骨等の変形無しで、即ち神経そのものが原因で発症するところが大きな違いです。変形とはカタチが歪むという意味ですが、本疾患では肉眼的な変形はほとんど観察されず、疾患の実態としては、もともと正常であった神経が組織レベル(=顕微鏡レベル)で変性し機能を脱落して発症するものです。degenerative disease は変性疾患と訳され  Degenerative  Myelopathy も変性性脊髄症と呼称する方が正しいのかも知れませんが、世間ではどうも、変形性脊椎症と混同されてしまい、変形性脊髄症なる誤用も非常に良く見受けられます。従って、退行性ミエロパチー(ミエロバチーとは脊髄症のこと)、或いは退行性脊髄症  Degenerative  Myelopathy と呼称した方が良かろうと院長は考えます。




症状



 退行性脊髄症 Degenerative Myelopathy  (以下DMと略称します)は高齢犬に見られる進行性の脊髄疾患であり、8〜14歳齢のイヌに潜行的にじわじわと進行して行きます。脊髄の胸椎部位がまず冒されますので、それが支配する身体の部位の感覚麻痺(しびれ)、脚の運動麻痺が両側性に発生(左右の後肢が共に麻痺することを対麻痺 ついまひ と呼びます)し、増悪(ぞうあく)します。両後肢の筋肉に脳からの刺激を伝達することが出来ませんので、力が入らず脚を地面に引きずる様に歩行します。股関節や膝関節に痛みや機能障害を伴う整形外科的な関節症とは臨床像が異なり、注意すれば見分けられます。

 後肢の運動失調(正常なリズムの歩行が出来なくなる)で始まり、歩行時にぐらついたり、足先を引きずる様になります。後肢の足を背側(=足の甲側)に屈することが出来ずに足の甲で接地すること(ナックリング、拳固にぎり)も示します。当初は片側の脚に症状が現れますが、やがては反対側の脚にも進みます。進行すると脚の筋肉が落ち(筋萎縮)、四足姿勢を保てなくなり、潰れた姿勢となり、歩行困難を来します。発症後、半年から1年で対麻痺、 下半身不随となります。更に時間が経過する(1年〜3年)と、脊髄神経からは内臓を自律的に調整する神経(自律神経)も枝を出していますので、排尿排便の正常な反射も機能しなくなりコントロールが不可能となります(膀胱直腸障害)。次第に上位(頭に近い側)の脊髄も冒されますので、前肢にも麻痺が拡大し、自立歩行が完全に困難となります。本疾患は運動神経のみならず感覚神経、自律神経の神経機能が全て脱落していく疾患ですので、患畜は麻痺部位の痛みを覚えません

 この臨床像は、例えば、ヒトの背損(脊髄損傷)の患者さんに類似しますが、DMでは進行性であり、最後は呼吸筋や嚥下の為の筋に向かう枝も冒され、発症後3年程度で死の転帰を遂げる点で異なります。

 また同じ神経変性疾患に分類されるヒトの筋萎縮性側索硬化症 Amyotrophic lateral  sclerosis (ALS)では、運動神経(=運動ニューロン)のみ傷害され、感覚神経並びに自律神経は冒されませんが、この点がDMとは大きく異なっています。この様に運動ニューロンの経路のみが冒される疾患を総称して運動ニューロン病 motorneuron  disease (MND) と呼称しますが、それには他にはヒトの脊髄性筋萎縮症 spinal muscular atrophy (SMA)などが含まれます。SMAは、脊髄の前角細胞と脳幹の運動ニューロンの変性による筋萎縮と進行性の筋力低下を特徴とする常染色体劣性遺伝の疾患です。

(つづく)








イヌの前十字靭帯断裂B 治療



2020年1月10日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 引き続き、イヌの前十字靭帯断裂の治療法についてお話しします。




観血的治療(つづき)


 全てのオペに言える事ですが、<大工仕事>として100%成功するわけではなく、また感染症の危険性もゼロではありません。まずは受傷直後の疼痛や腫れが退いたのちに、暫く様子見し、それからオペを行う行わないを担当医の見解を含めじっくり検討すれば良いのではと考えます。オペを受けるとなると、掛かる医療費も低く済ませられる様にはとても見えません。

 ヒトの断裂受傷例の様に、正常な靱帯が断裂した場合は兎も角も(勿論イヌでもこのケースはあります)、関節構造が靱帯含めて脆弱化しているイヌに於いては、オペに拠っても(力仕事が可能な様な)完全な回復は期待し得ず、どうしても妥協的な回復となりますが、烈しい運動を控えるなどを心得れば相当程度の回復(外見上正常歩行と遜色ない歩行)が見込める可能性があります。イヌ並びに飼い主共々十分に幸福になれるレベルでしょう。これは医薬品の投与により、併発している関節炎の改善も同時に期待できるからでもありますが、オペを受けた後も、運動管理や体重管理と言った生活形態を含めた総合的な管理を行う事が大切と考えます。





 非観血的治療


 イヌの前十字靭帯断裂が発症時には既に変形性膝関節症を併発し、言わば膝関節劣化症候群の色彩を帯びており、単純明快に biomechanical な理論からA地点とB地点と繋げば全てOKとはならず、妥協的な意味合いを持ち得ることを上に触れました。実際、素材や部品がイカレとるとこにオペなんぞして一体なんぼのもんけぇのぉ、とお感じの方もおられるでしょう。

 そこで外科手術教?の飼い主は別として、ここは一つ冷静になり、オペを受ける利点とオペを受けない利点を秤に掛けるのも悪くはないでしょう。担当獣医師も、医学的に公平な判断をする人物であれば、「膝全体の状態が良くないのでオペをしたところで大幅な改善が期待できず、外科的侵襲や感染症のマイナス点を鑑みるとオペは止めた方がいい、それに今の状態でもそこそこは歩けているでしょう?」、と主張する場合もあるでしょう。それに心肺機能が悪く麻酔に耐えられないような場合はオペなど最初から選択枝には入りません。


 youtube の動画では外科手術を受けずとも前十字靭帯断裂から回復したとの内容のものが多々掲載され、また獣医師が非外科手術の療法を熱く語るものも複数あります。

 「ACLに対して外科手術を行わずに保存療法を選択したが、一年程度経過後に外見的にはほぼ問題なく歩行し得るようになった、それを見て呉れ」の動画に対してですが、受傷後の激烈な疼痛と腫れで脚が機能しなかったところ、それが治まるにつれて「元の歩行」に戻ったことも考えられます。どう言うことかと言えば、1つには、もともとが劣化していて緩んでいた靱帯に対し、それを補うような組織形態或いは筋の協調リズムを潜在的に獲得しており、靱帯断裂自体の歩行に与える影響が大きいものではなかった可能性があると言う事です。或いは、受傷後に周囲組織の増強、改変、関節部位への体重の入れ方並びに周囲筋の協調運動の学習を通じて、脛骨の関節面を前方に滑らせないソフト、ハード面での改善を見たことも考えられます。実際、この様な動画では膝の関節を脛骨の前方へのスリップなく、一軸性関節として機能させ得ていますので、何らかの改善は確実に起きている筈です。併発していた関節炎への治療も良い影響を及ぼしている可能性があります。まぁ、靱帯なる構造物が損傷している以上、負荷の高いエクササイズは出来ませんが、そこらをうろついたり小走りする程度ならOKのレベルにはオペ無しでも回復する例もそこそこあるのは事実ですね。外科手術には多額の費用が掛かり、また施術後のリハビリなども要求されます。オペ無しでもそこそこの四足歩行が取り戻せるなら、イヌにも手術で痛い思いを味合わせることも無く、これでいいじゃあないかとの主張が出ることに対し、院長は否定する気持はありません。

 股関節形成不全の項でも触れましたが、NSAIDS などの医薬品、サプリメント、エクササイズや理学療法を含めたリハビリもモノを言うでしょう。関節に対する負荷を勘案した上での水中療法なども望ましいですね。適当な関節保定具を着用させるのもある程度の効果がある筈です。

 但し、非外科手術での改善を見るのは、矢張り一定の体重以下にある個体に限定され、それは大方15kgが境となります。体重が重く膝関節への負荷が高いと、周囲組織からのソフト、ハード面からの代償では脛骨の前方スベりには太刀打ちできなくなる訳です。院長は別に獣医整形外科医に肩入れする積もりはありませんが、観血的な改変を加えるのが手っ取り早くもありもまた正解でもあるとの話になります。<自然治癒>治癒を期待し、いたずらに異常歩行のまま時間を経過させると、関節炎を重篤化させ一層患畜は苦しむ様になります。youtube の動画での非外科手術での「成功例」では当該動物の体重への言及が無く、それゆえ投稿者には二乗三乗の法則(身体のサイズが大きくなると膝関節面の面積はその二乗で増えるが、体重は三乗で増えるので膝関節の単位面積当たりの負荷が格段に増大する)への理解すらない様に見えます。体重負荷の掛かる関節の治療に関して、youtube やweb サイト等でボディサイズへの鋭い視点無く語られる内容は、信頼性並びに科学的な考察性が低いと判断するのも賢明です。お飼いの愛犬に、この様な<非観血的治療の勧め>が必ずしもそのまま当てはまる訳ではないことを最後に強調してこの項を終わりにします。








イヌの前十字靭帯断裂A 症状・診断・治療



2020年1月5日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 引き続き、イヌの前十字靭帯断裂について、症状、診断、治療法についてお話しします。




 症状と診断


 大方のケースでは、ある時から突然跛行を示し、痛そうに歩くことで飼い主が不審に思い、動物クリニックに駆け込む事になります。これに先立ち、靱帯を含めた関節部位の劣化に拠る歩行異常を飼い主が気づく場合もあります。受傷後暫くは烈しい疼痛の為に体重を掛ける事が殆ど不可能となり、患側の膝を屈した典型的な足上げポーズで歩行します。左右同時に損傷した場合、<トイレスタイル>で辛うじて歩行したり、或いは殆ど起立不能となり神経学的な問題(例えば脊髄神経の異常)を抱えていると誤診される場合もあります。靱帯はX線画像に写りにくい為、用手的に、膝関節の不安定を確認します(鎮静剤投与下で、膝の下側のホネつまりは脛骨が前方にスライドするかどうかで診断)。靱帯の部分断裂の場合は膝関節の屈曲位でのみ前方移動が起こるとも言われていますが確定はできません。反対側の膝の動きと比べてみるのも分かり易いでしょう。MRI 画像を得る方法もありますが、内視鏡で直接関節腔内を観察し、靱帯の断裂並びに半月板、関節軟骨面の損傷の程度を調べ確定診断を得ます。前回述べましたが、イヌで本疾患発症時には、既に膝関節の各所が劣化を来たし、程度に差は見られるものの、変形性膝関節症の段階にある例が殆どです(勿論、ヒトの場合と同様、正常靱帯が強力な外力によりプツンと断裂するケースもあります)。それゆえその様な場合は、疾患概念としては、イヌの膝関節劣化症候群とも命名すべきかもしれませんね。




観血的治療法


 単純に考えれば、切れてしまった靱帯を、その両端を引き寄せる或いは他の部位から「調達」した自己腱を間に挟み、ワイヤーで縫合すれば終わりとなる筈です。実際、ヒトのスポーツ選手等の本靱帯断裂例に対しては、この方法が採られ、受傷前と何ら遜色ない、良好な機能回復が期待されます。

詳細については、例えば以下をご覧下さい。

順天堂大学整形外科・スポーツ診療科

https://www.juntendo.ac.jp/hospital/clinic/seikei/about/disease/sports/sports_05.html


 或いは別の場所から採取した靱帯を2つのホネの間に新たに取り付ける、関節腔内全靱帯再建術も採り得ます。こちらはなかなか高度な技法です。


 しかしながら、イヌの場合は、劣化の進んだ靱帯が離断して本疾患が起きますので、それを繋いだところで、次に弱い箇所が再び離断することが目に見えています。また関節腔内全靱帯再建術はイヌでは一般的には行われてはいない模様です。このようなことで、現在行われる外科手術としては、

 脛骨の前方移動をメカニカルに抑制すべく、


@上下2つのホネを適当なワイヤー(ナイロン線)等で繋ぐ、

A脛骨の関節面全体を前方に回転させる、

B大腿直筋−膝蓋骨−脛骨を繋ぐ強大な腱に対し、脛骨の付着部を前方に移動する


 などの、周辺域から正常な関節運動を支援するための施術が行われます。


 @の施術ですが、互いに深く篏合する関節構造にはない2つのホネのサイド(関節外)に、前十字靭帯と同じ様な斜め方向にナイロンケーブルを走らせる方法ゆえ、ケーブル自体に弾力があればまだしも、そうではないナイロン糸で結びますので、飽くまで補助的に脛骨の前方移動を抑える程度の効果しか期待できません。また、力の掛かる大型犬などではケーブルが構造的疲労から断裂する場合もあります。動物は長年に亘る進化の過程で、関節腔内に斜めに走らせる靱帯を最適なものとして獲得して来た訳であり、何か見よう見まねの牽引構造を関節外部に取り付けたところで元の靱帯機能に叶う筈がないことはご理解戴けるものと思います。

 Aは脛骨高平部水平化骨切り矯正術 (Tibial plateau leveling osteotomy: TPLO)ですが、刃が円形の専用カッターを脛骨の側方から用い、脛骨の関節面を一度骨幹から分離し、くるんと前方に回転させてから再び取り付け、ボルトで固定する技法です。脛骨関節面の後方を高くし、前方を低くする改変ですので、脛骨が前方に移動するのが抑制されるだろうと、理論的には単純明快な施術ですが、実際のオペの場では、他の正常な組織を破壊する事の無きよう、注意深い手技が要求されます。またざっくりホネを一度離断しますので患畜に対する影響(外科的侵襲)が強く、術後のリハビりも一定程度要求される様に思われます。場数を踏んだ、生まれつき手先が器用で、切った貼ったの勘所を心得ている<職人>獣医師のみ可能だろうと思います。まぁ、尤も、外科医、整形外科医などは基本は皆職人だろうとは思いますが。院長は解剖学並びに機能形態学に進みましたが、基本は似た様な性向で、切った貼ったは全然嫌いではありません・・・。

 Bの脛骨粗面前方転移術 (Tibial Tuberosity Advancement, TTA)  ですが、脛骨の前側の出っ張りを削ぐように隙間を空け、その空隙に適当なコマを入れてのちボルトで固定します。ハイドロキシアパタイトのペーストを充填します(クサビをはめ込む手法もあります)。膝のお皿(膝蓋骨)の上側は筋肉(大腿四頭筋)に、他方下側は靱帯を介して脛骨の上の前端に強力に付着していますが、この付着位置を前方に繰り出すことで、脛骨が前に移動する力のベクトル成分を押さえ込む作戦です。まぁ膝関節の前方を覆うゴムの膜の強度を高めようとの策です。直接に脛骨を後ろに引く力成分を格段に強めるものではありませんが、この少しの差が馬鹿にならず、施術後に短時間で歩行が可能となる効果があり、AのTPLO同様、獣医整形外科の分野では主流な術式の1つとなりつつあります。しかしながら本邦でこの術式がどの程度普及しているのか、院長は情報を持っていません。

(つづく)








イヌの前十字靭帯断裂@ 概要と原因



2020年1月1日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。新年明けましておめでとうございます。

 本年も当院長コラムにお付き合い戴ければ幸甚です。

 さて、クリスマスの日は過ぎてしまいましたが、十字に関する整形外科の話に入りますね。

 スポーツ観戦にご興味をお持ちの方でしたら、ラグビー選手が試合中或いは練習中に膝の前十字靱帯 ACLを断裂してしまい加療3ヶ月だ、などのスポーツ新聞の見出しを見たことがあるのではと思います。しかしながらこの前十字靱帯なる用語は聞いたことがあっても、どの様な靱帯なのか正しく思い浮かべることの出来る方は大変少ないだろうと思います。

 同じ哺乳類と言う事で、イヌもヒトも膝の関節構造は基本的に同じであり、膝から下の向こうずねの骨である脛骨(けいこつ)の膝関節面に浅い左右の前後方向の凹みがあり、そこに大腿骨側の左右の丸みを帯びた出っ張りが座布団(半月板)を介して軽く乗る構造です。運動性としては大まかには一軸性のヒンジ(蝶番)関節となります。まぁ、ドアの開け閉めの動きですね。股関節のように一方の関節の窪みに他方の丸い断端がガッチリと填まり込んでいる構造ではありませんので、脱臼したりずれたりしない様に、関節の内外に強力なバンドである靱帯を配置しています。十字靭帯と言う名前は。関節の内腔、大腿骨の関節面から脛骨関節面に向かう靱帯が2本有り、一方は前から後ろに、他方は後ろから前に向かい、横から見るとXの字型に交差しているのでこの名が付いています。大腿骨の後ろから発して脛骨の前方に向かう方を前十字靭帯  anterior crucial ligament ACLと呼称します。イヌを含め四足動物の場合は頭側(とうそく)十字靭帯 cranial crucial ligament CCLと呼ぶのが正式ですが、一般的には ALC でも差し支えないでしょう。

 今回から3回に亘り、イヌの前十字靭帯断裂について獣医学的に解説を加えていきます。




原因


 前十字靭帯は外傷などの無理な力が掛かったときに、一部または全部が断裂してしまうことが多いです。これが断裂すると、大腿骨関節面に対して脛骨関節面が前方に移動してしまい、正常な歩行が遣りにくくなります。安定性が悪くなり、一軸性の軸が定まらずに蝶番運動に差し支える訳です。この様な状態で無理に歩行していると、正常ではない外力が関節に加わり、関節内部のクッション構造物(半月板)が破断したり、関節軟骨が摩耗し、骨同士がコンタクトするなど状態の悪化へと繋がる可能性もあります。ここまで進むケースでは当然ながら痛みや炎症が伴い、立派な関節炎(膝関節炎)の出来上がりです。

  ヒトもイヌも解剖学的には基本的に似た様な膝の構造ですが、前十字靭帯に損傷が発生するプロセスが両者で大きく異なっています。上に「無理な力が掛かったとき」と記しましたが、この曖昧な表現の中に違いが存在します。

 関節構造が仮にヤワであれば、多少の外力で損傷してしまい、歩行が覿面に困難となります。股関節形成不全の項でも述べましたが、個体の生存には圧倒的に不利になります。特にヒトは二本しか脚がありませんので、しっかりと歩行が維持出来るよう(素速く走れなくて良い)、頑丈な下肢を持つように自然淘汰をくぐり抜けてきた動物と言えます。斯くして前十字靭帯を損傷するのは尋常ならざる大きな外力が急激に膝に作用した時のみです。スポーツ外傷(ラグビー、フットボール、柔道、ゴルフなど)が原因の大半となります。これに対しイヌでは、ロープがほぐれてボロボロになるかの様に靱帯が時間を掛けてゆっくりと劣化していき、何かのちょっとした外力が加えられたときにアレレと破断を来します。詰まり、元々丈夫だった靱帯の紐が強力な引き延ばしでプツンと断裂したか、全体が劣化していた紐がほぐれるように離断したかの違いですが、これが治療に対するアプローチ自体をヒトとイヌとで異なったものとします。イヌの場合はこの様に実は慢性的に徐々に劣化が進行する病態ですが、靱帯が断裂して跛行を示したときには、既に半月板や関節軟骨も損傷していて膝関節炎を来している例が多いのが実際のところです。

 他の四足歩行獣に於けるACL 損傷の実態について調査し、それをヒトの場合と比較することで、ヒトの二足歩行性の、また比較対照する当該四足獣の特異性が新たに浮かび上がるだろうと院長は考えています。これも、進化機能形態学の立派なテーマとなりそうです。

 四足歩行性の動物に於いても、1本の後ろ足が利用出来ないとなれば、個体の生存に著しく不利となりますが、イヌでは特に或る犬種(ラブラドール、ロットワイラー、ボクサー、ウェストハイランドホワイトテリア、ニューファウンドランド、ブルドッグ等)にACL 損傷が多発します。もうお察しかと思いますが、股関節形成不全と同様、本疾患の多くは遺伝的背景を抱えていることになります。まぁ、四足歩行動物のクセに四肢が弱い動物になって仕舞った、それを人間側の飼育が許容し今日に至っていると言う次第です。直接的な原因ですが、靱帯そのものが脆弱性を持っている、或いは関節面の角度或いは半月板に異常がありこの靱帯に普段から負担が掛かっている、などの遺伝的要因が考えられますが、まだ十分に解明はされていません。