Ken's Veterinary Clinic Tokyo

相談専門 動物クリニック

                               



























院長のコラム 2020年8月20日


腺ペスト 古代のDNA と最近の疫学






 

腺ペスト 古代のDNA と最近の疫学




2020年8月20日

 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。

 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第14回目です。ネズミとの関連では中世に爆発的流行をもたらした黒死病 Black Death について触れない訳には行きません。人類史に、また生物としてのヒトに与えた影響は甚大なものがありました。新型コロナウイルスも汎世界的な流行を見た点で pandemic ですが、解説を通じ、黒死病との類似点、相違点を考える為のヒントをお掴み戴ければ幸いです。その第7回目です。烈しい pandemic を惹き起こすペスト菌とはそもそもどの様なものなのか疑問をお持ちの方々も多いだろうと想像し、ペスト菌の細菌学的な側面について扱います。

 ペスト菌の細菌学的な記述に関しては今回が最終回となりますが、  https://en.wikipedia.org/wiki/Yersinia_pestis の内容が国内のwikipedia の記事よりも格段に充実していますので、引き続きその記述並びに引用文献の内容をメインに、和文への訳出+解説を加えて行きましょう。尚、院長の専門である肉眼解剖学、機能形態学とは大きく離れる分野ですので、専門用語の訳出上の誤りも少なくなかろうと思いますが、ご寛恕戴ければと思います。



以下、本コラム作成の為の他の参考サイト:


https://ja.wikipedia.org/wiki/腺ペスト

https://en.wikipedia.org/wiki/Bubonic_plague


https://ja.wikipedia.org/wiki/ペスト

https://en.wikipedia.org/wiki/Plague_(disease)


国立感染症研究所 ペストとは

https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/514-plague.html







Figure 3: Phylogenetic placement and historical context for the East Smithfield strain.

from A draft genome of Yersinia pestis from victims of the Black Death

(黒死病の犠牲者から得たペスト菌のゲノム概要配列)

Kirsten I. Bos, et al.

Nature volume 478, pages506-510(2011), Published: 12 October 2011

https://www.nature.com/articles/nature10549

pdf が全文無料で入手出来ます。


1300年代に欧州で猖獗を極めたペスト菌に現在のペスト菌を比較すると僅かな

変異しか観察されなかったとの結果が得られています。図bの系統樹は例えばイヌ

科の系統分類などど全く同様の手法での解析結果です。14世紀の黒死病はカス

ピ海西方に発し貿易等の交易を通じ西方に伝搬拡大して行ったとの文献が紹介さ

れています。海路+陸路での拡大ですね。5年間の流行で3000万人以上のコー

カソイド(白人)が死にました。当時の社会制度、死生観、宗教に対する影響はすさ

まじいものがあったのでしょうね。一方その頃日本では元寇襲来で弱体化した鎌倉

幕府が倒され室町幕府が始まった頃になります。


この様に日本史、世界史と分けること無く、1つの地球の上の人類史として歴史を

眺めると俄然面白くなるのではと思います。疫病をコアとして歴史が好きになるのも

アリですね。一般的に歴史学者になるのはいわゆる文系の学部出の者達ですが、

自然科学な視点に弱く、得意分野の権力闘争、民族移動、宗教戦争、経済、芸術

絡みなどの視点で分析・考究に持って行こうとしがちです。逆に理系の連中はピン

ポイント的に専門分野の解析考究を行うのみで、人文科学、社会科学の分野にモ

ノ言う力量無く、或いはしばしば関心すらなく、両者は噛み合いません。


疫病絡みの歴史事象を学ぶことは、文理両サイドの者に思考の幅を広げ視野を拡

大するのに良い刺激を与えそうだ、とペストのコラムを書きながら院長は強く感じて

います。






古代のDNA証拠


 2018年に新石器時代 (少なくとも 6000年前に遡る)の間に病原菌の出現と拡大が起きたとの論文が出版された。スウェーデンの或る場所からそのDNAの証拠が得られたのだが、人の移動そのものよりも交易のネットワークがペスト拡散の道となったろうと著者らは考察している。2015年に出版された論文では、得られたDNAを解析し、ペスト菌はユーラシアの青銅器時代となる 5000年前にヒトに感染性を持って居たが、4000年前までは高度な病毒性をもたらす遺伝的変化は起きていなかったとの証拠を提出している。


 齧歯類、ヒト、他の哺乳類を通じてノミで伝搬され得る非常に病毒性の高いバージョンは、凡そ 3800年の Srubnaya 文化に関連しているロシアの Smara 地域からの1人に、それと 2900年前の鉄時代のアルメニア Kapan からの1人に見付かっている。これは少なくとも2つのペスト菌感染経路の流れがユーラシアの青銅器時代に存在していたことを示している。


 ペスト菌は、比較的大きな数の非機能性遺伝子と3つの「不格好な」プラスミドを持って居るが、これは 20000年以内に起源したことが示唆されている。


 3つの主たる系統が認識されている:6世紀のパンデミックを起こしたY. p. antiqua 古代ペスト菌、第2の波で黒死病とそれに続く流行を起こしたY. p.  medievalis 中世ペスト菌、それと現在のペスト流行の原因であるY. p. orientalis 東洋ペスト菌である。


 ペスト菌はノミの前胃にバイオフィルムを形成してブロックする。バイオフィルムの形成は血液の摂取により誘導される。バイオフィルムの存在はノミからの安定的な感染成立に必要とされる様に見える。バクテリオファージYpφがこの細菌の病毒性の増大に関与している可能性が示唆されている。




* 2011年に Nature に掲載されたBos らに拠る論文:A draft genome of Yersinia pestis from victims of the Black Death (黒死病の犠牲者から得たペスト菌のゲノム概要配列)に興味深い記述がありますので、生物学としての細菌学に興味をお持ちの方はお目通し下さい。

A draft genome of Yersinia pestis from victims of the BlackDeath

Kirsten I. Bos, et al.

Nature volume 478, pages506-510 (2011), Published: 12October 2011

https://www.nature.com/articles/nature10549

(図説含めた全文のpdf が無料で入手出来ます)


 14世紀半ばの黒死病犠牲者の墓地からロンドン博物館考古学部門が発掘した死体の歯牙並びに骨からペスト菌を得、現在のペスト菌とのDNA配列を比較した仕事になります。

 その結果ですが、過去600年以上の間、ペスト菌の遺伝子配列は大きく変化していないことが明らかになりました。詰まりはペスト菌の病原性は当時のままに維持されているが現代の医学治療の進歩が感染爆発抑制にモノを言っていることを意味します。ペスト菌の系統が1つに限定され、共存する複数系統間で遺伝子交換が起きて強毒性や耐性を持つ新たな系統が発生することがないのがせめてもの救いとなっている訳です。進化即ち変異する速度が遅い訳ですが、仮に現行の抗生剤に耐性を持つペスト菌が一度発生したとなると、それが変異することなく(おそらく地球上の各地域に)長期間維持されることになり、人類の存続に関わる困った事態となりそうです。

 ペスト以外の感染症に関しても、幸いにして本邦が島国である利点を生かし、新興或いは再興感染症の情報を迅速にキャッチし、躊躇無く直ちに、港湾、空港の検疫強化、封鎖などを行う事が肝要ですね。今回のコロナ禍から教訓を得、今後十分に活用すべきです。








最近のトピックス


 2008年にペストはサハラ以南のアフリカとマダガスカルで普通に見付かり、それは報告される世界での全ペスト症例の95%に達する。


 2009年の9月には、シカゴ大の分子遺伝学の Malcolm Casadaban 教授の死が、ペスト菌の弱毒化実験系統を扱う彼の仕事に原因するものと考えられた。彼の血色素沈着症が、弱体化された系統からでもペストに容易に罹患する要因となったとの仮説が唱えられている。


 2010年には、ドイツの研究者らが黒死病の犠牲者から得られた試料でPCRを行い、中世の黒死病の原因がペスト菌であることを確定させた。


 2011年には、黒死病の犠牲者から単離されたペスト菌のゲノムの最初の報告が出版され、この中世の系統は最近のペスト菌の型の祖先であると結論された。


 2015年には、Cell が古代の墓に関する研究結果を発表した。ペスト菌のプラスミドが青銅器時代のヒト7個体の歯の考古学的試料から採取されたのである。これらはシベリアの Afanasievo 文化、エストニアの Corded Ware 文化、ロシアの Sintashta 文化、ポーランドの Unetice 文化、そしてシベリアの Andronovo文化からの試料である。


 2016年の9月8日に、ロンドンの Crossrail building の建設現場で見付かった歯のDNA試料からペスト菌が見付かった。遺骸は1665から1666年に掛けて続いたロンドンのペスト大流行 the Great Plague of London の犠牲者だったと分かっている。2018年1月15日にオスロ大学と Ferrara 大学の研究者がヒト並びにその寄生虫がペストの第一の運搬者であったことを示唆した。


 2019年11月13日に北京 Chaoyang 地区の病院で2つの症例が肺ペストと診断されたが、大流行が起こるのではないかと人々は恐怖心を抱いた。医者は発熱している中年男性をペストと診断したが、当人は10日余り呼吸困難であったことを医師に訴え、それに続き彼の妻も同様の症状を発症した。警察は、病院に緊急隔離室を設け、中国の報道関係を統制下に置いた。11月18日に、中国北部の12あるモンゴル自治区の1つ Xilingol League の55歳の男性が第3番目の症例と報告された。その患者は治療を受け、28人の無症候者が検疫下に置かれた。


 中国内モンゴル自治区の都市、Bayannur で腺ペストが確認された後、当局は予防策を増やした。患者は検疫室にて治療される運びである。中国環球報に拠ると、更に第2の疑わしい症例も調査中であり、レベル3の警報−ペストを運び得る動物の狩猟と肉の摂取を禁じ、疑わしい症例が出た場合に人々に報告するよう呼びかけるもの−が2019年末まで発効する。


(訳出&解説終わり)









  ペスト菌の生物学的、細菌学的側面の解説でしたが、途中専門的過ぎる箇所もあったと思います。院長の専門分野とはかけ離れた分野ですが、随分と細かなことも分かって来ているなぁとの感想です。遺伝子がどのようなタンパク質並びに生化学的構造を作り、機能を発現するのかの探求が進んで来て居ますが、これは動物の生体内に於ける遺伝子の機能の検索−例えば以前扱ったデュシェンヌ型筋ジストロフィーの病態の探索と治療−と何ら変わるところなく、視点を微生物に移しただけとなります。

 病原菌に感染される側との免疫応答との関係がより明確にされれば、感染症の治療、予防或いは outbreak  (= 集団感染勃発) の制圧に繋がりますが、コロナ禍の現状を見るに今回のコロナウイルスに関する既知の知見の集積は僅かに留まり、まだまだ大きな課題を抱えているように見えます。専門家と称される者達の言う事が一人一人違っている有様ですね。

 次回からはペストと人類史との関係について解説を深めて行きましょう。